現地会議
3.11の今がわかる会議 in 2020 テーマ3
今年度で10年目を迎える東日本大震災。多くの人々が大変な思いをしながら、平穏な日常生活を過ごせるよう復興という長い道のりを歩んでこられました。一方で、様々な課題を抱えしんどい思いをされている人々が今、なお多くいます。また、地域に根ざして、そうした人々に寄りそいながらともに歩んできた多くの人々もいます。10年経過した今、そうした現実を私たちはどれだけ知っているでしょうか。東日本大震災の課題は東北だけの課題でしょうか。
東日本大震災の10年目の今を知り、全国のみなさんの力と知恵をあわせて、東北の未来づくりを一緒に考えたいと思います。また、東日本大震災の課題を考えることが、今、各地で起きている災害やこれから日本が抱える課題にも活かすことができると信じています。新型コロナウィルスの影響もあり、人と会う機会が減ってきた今だからこそ、オンラインというツールを使い、全国のみなさまを東北につなぎなおしたいという思いを込めて企画しました。
開催概要
タイトル | 3.11の今がわかる会議 in 2020 テーマ3 |
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テーマ | 東日本大震災から10年〜これまでとこれからの地域を歩む人々の思いとは〜 |
日時 | 2020年10月31日(土)13:00-16:00 |
会場 | オンライン(Zoom)にて開催(仙台駅前会議室 会議室大Aホール) |
主催 | 東日本大震災支援全国ネットワーク(JCN) |
助成 | 復興庁コーディネート事業 |
参加者数 | 91名(一般79、登壇4 [うちオンライン1]、来賓1、スタッフ7) |
開会挨拶/趣旨説明
主催挨拶
認定NPO法人レスキューストックヤード(JCN世話団体) 浦野 愛
東日本大震災から10年、節目の年になる。先日阪神淡路大震災の被災地である神戸のお茶のみサロンにお邪魔した。そこで25年活動しているボランティアさんの「震災は特別なものでもなんでもない。毎日の積み重ねの中、日常の延長上に1.17があった。暮らしの中に存在している」という言葉がとても印象的だった。震災復興はドラマチックな展開を想像している人が多いと思うが、小さな活動の継続や場があることで、心と生活を支える人たちが沢山いる。
今日の登壇者の皆さんは復興支援に関わっている。普段から丁寧に声を聞いている方々が試行錯誤を重ねて、どのように関わっているのか。新たなチャレンジ、未来、できることは何か。被災地の復興に思いを寄せるという3時間になれば幸いです。
来賓挨拶
復興庁参事官補佐 鈴木弘之様
東日本大震災から10年。復興は着実に進展しているが、引き続き取り組みが必要な部分や新たな課題も明らかになっている。課題は個別化複雑化し、解決には多くの方々の協力が必要である。今回は復興に携わってこられた方々から、その向き合い方や感じた思いを聞き、今後の地域の姿を考えていく内容。長年活動されてきた方の長期的視点や思いの変化を共有し、課題を深くとらえ、今後の地域づくり等に活かしていくことは重要である。コロナウイルス感染症の終息がみえない状況で、NPO等様々な取り組みに支障が出ていると聞く。今回の様なオンライン会議を含め、新しい生活様式に配慮しつつ取り組みを進めていく必要がある。復興庁では令和3年度より第二次復興創生期間として心のケア等の残された事業に全力をあげ、きめ細かい取り組みを着実に進める。今回の会議が被災地の現状を知り、東北の未来づくりを全国の皆さんと考える場となることを期待している。
トークセッション1「過去・現在」
登壇者紹介
【コーディネーター】東日本大震災支援全国ネットワーク 代表世話人 栗田暢之
311会議をこの様な形で開催するのは最後。2011年5月に仙台で行った現地会議を第一回目とし、今日まで56回の会議を重ねてきた。感慨深い10年であった。短い時間だが被災三県を代表する素晴らしい方々にお越しいただいた。その方々の思いもたっぷり聞いて、東日本大震災に心をよせる時間としたい。
【岩手県】特定非営利活動法人wiz 代表理事/特定非営利活動法人いわて連携復興センター 理事 中野 圭氏(オンライン参加)
岩手県大船渡市の小さな漁村に生まれ、34歳。地元から離れたくて仙台に行き、大学卒業後は東京でサラリーマンとして働いて起業した。適度な距離感を取っていたことで地元も好きになってきた。離れていながらも地元に貢献したいと思っていた頃、東日本大震災が発生し、3月12日東京にいた地元の友達と一緒にレンタカーを借りて戻った。それから産業をつくらなけばと思い、箸を作る活動や花火大会、小さな団体が設立運営のために東京で募金を集めて提供したりした。2011年12月にJCNやいわて連携復興センターと出会い、支援者のコーディネート、環境づくりに力を入れ始めた。2014年には若者のネットワークで岩手を盛り上げようとwizを立ち上げた。漁業を継ごうと思いながら帰ってきたこともあったので、徐々に復旧してきた2016年に漁業にシフトし、2020年に親父から代替わりした。
【岩手県】一般社団法人三陸ひとつなぎ自然学校 代表理事 伊藤 聡氏
釜石市生まれ釜石市育ちの40歳。団体は2012年4月に立ち上げたが、活動自体は発災直後から。宝来館で働いていて、目の前が海で津波でなんとか生き残る経験をした。家を失ったりという経験の中、地元を復旧したいとボランティアコーディネートをした。活動は多様だが、今は次世代育成が中心。地域で若手を育てながら、それを仕組みにしていく。対象は小学校から高校性で、放課後子ども教室や釜石高校の放課後の居場所づくり。地域の良さを知る、郷土愛を高める、地元に貢献したい高校生の伴走サポートをしている。みんなで考えながらより良い地域をつくっていくコーディネート、未来を生き抜く力を高めることと、担い手になっていくことを合わせてやっている。
【宮城県】一般社団法人日本カーシェアリング協会 代表理事 吉澤武彦氏
姫路市から石巻に入り、団体を立ち上げた。寄付で車を集めてそれを活用して支え合いの仕組みを作る取り組みをしている。現在はスタッフ20名。寄付で集めた車250台を活用している。活動は大きく3つある。
- コミュニティカーシェアリング:地域で車をシェアして支えあう仕組みを作る。仮設住宅が不便なところにできたので、交通弱者がたくさん出た。そこに車を貸し出して役割を決め、高齢者の通院、ツアーとしての買い物など、話しながら、楽しみながら支え合いを作る活動をしている。
- モビリティ・レジリエンス:災害支援。集めた車を無料で貸し出す支援を行なっている。災害になると車がなくて困ることが多い。現在は九州で120台を集めて貸し出しの支援を行なっている。
- ソーシャル・カーサポート:車を使った社会貢献。意義ある活動を車で応援する。生活困窮者の生活再建のためNPOに貸し出している。最近では震災の語り部の言葉をカーナビに搭載し、車で回りながら伝えていくという震災伝承を企業と開発している。
【福島県】特定非営利活動法人ザ・ピープル 理事長 吉田恵美子氏
活動歴は長く1990年にボランティアサークルからスタート。住民主体の町をつくる手法として古着のリサイクル活動をしていた。2011年1月に設立20周年を迎え、福島県を古着を一枚も燃やすことのない県にするのが当時の思い。東日本大震災から活動が大きく変わり、ふくしまオーガニックコットンプロジェクトという、農業と人のつながりの再生を目指した有機農法でコットンを育てる活動の軸に、ミクロネシアの女性達にソーラーミシンで民族衣装をつくってもらう事業や、地域中でフードバンク事業等を平行して行っている。私たちの思いは、自分達の住んでいる地域を自分達自身で良くしていきたい。仲間を育てたいというところにある。
岩手県 中野 圭氏:過去・現在
東日本大震災は大きな人生の転換期になった。津波で地元の多くが流され、失って初めて気づいたものが多く、色々な記憶が思い起こされた。日々の暮らしの中の記憶、思い出の場所が全部なくなったことを思い出す、それが自分の原点。なぜ行動に移せたのかというと、一緒にやる仲間がいたから。震災発生時は東京に住んでいたが、2011年の9月に地元に戻った。東京に住んでいた仲間も一緒に帰ってきました。その後、NPO協会で活動をし始めて出会いがあって、団体を作った。
震災前までは地域に対してやってもやらなくても何も変わらないと思っていた。震災があってゼロ、マイナスの街になって、自分がこうしたいと思って動くことで、変わっていく実感があった。その成功体験で、動けば変わる、変えたいなら変えられるという価値観に変化していった。それまで地元は田舎くさいな、嫌いだな、自分のやりたいことは地元でできないと思っていた。東京にいったらできるんじゃないかなと思っていたが、どこにいても結局はできるし、今はそれを作ることができる世の中だと思う。ここが活動を通して価値観が変わった点。
ディスカッション
- (栗田)田舎が嫌いで出たいというのは、この地域では中野くんだけではないと思う。地元にいながらできることも多いんですね。仲間とは何をしてきたか。
- (中野)東京にいる仲間7人と帰って、流れた町を見ながら、何かやらなきゃという共通認識ができていった。当時は東京からできることを考えていたが、当時は東京にいるより、地元にいてできることの方がはるかに多くて帰ろうと思った。
- (栗田)現在は漁師に取り組んでいる。毎日の厳しさがあると思うが、漁師との両立はうまくいっているか。
- (中野)生業、文化として基盤となっている漁業を通じて地域の復興、自分が生きていくこと。別なことを両立ということよりは、まずは自分ができることをやっている。
- (栗田)伊藤さんはずっと地元にいるが、外から戻ってきた人はどういう印象か。
- (伊藤)中野くんみたいな人は釜石にも沢山いて、ありがたいと思っていた。震災の前には考えられない動きなので、そういう人たちとも今一緒に活動している。
- (栗田)10年の間のチャレンジ、その思いはどれほど達成できているか。
- (中野)最終的なビジョンが果てしなく遠い、変わっていく。日々舞い込む動いている課題・可能性が見えてきて、今はその変わり続けるものをこなしている状態。
- (栗田)34歳、若い。期待の星でもあると思う。
- (中野)そうなれるようにがんばります。
- (栗田)吉澤さんは中野さんの話をどう思ったか。
- (吉澤)うちの団体にも同じように地元に戻ってきた子がいて、重なった。動けば変わる、共感した。
- (栗田)吉田さんはどう思ったか。
- (吉田)いわきでも30代はふるさとに魅力を感じていなかった若者が多かったが、震災をきっかけに故郷を考え直している人が多い。30代は宝物だと思う。
岩手県 伊藤 聡氏:過去・現在
まさか自分が生きている間にこんな津波がくるはずないと思っていたが津波が襲ってきた。死を覚悟する瞬間は後にも先にもここだけで、住み慣れた町が一瞬で消え去る経験も大きい。最初の一週間位は本当に落ち込んでしんどい時期だった。それを救ってくれたのが外から来た人達。小さな変化を見ていたら、これだけ沢山来てくれるならどうにかなるんじゃないか、そういう方たちの行動が自分を救ってくれた。
3月26日宝来館、この集落は70世帯で1軒も家が残らず、100人以上が唯一被災を免れた宝来館の3階4階に避難していた。市が安全な場所を用意してくれて、宝来館の避難所は解散となった。最後に鍵を閉め、誰もいない宝来館を見ていたら、未来の釜石に重なった。住み慣れた釜石もめちゃくちゃで釜石から誰もいなくなるのではという危機意識を持った。この日が動き始めるきっかけをもらった日だった。
その後、がれき撤去や避難所運営やら求められることをひたすらやったが、2015年の一人の高校生との出会いが転換期となった。それまでは観光地域づくりの収益化や関係人口を増やすことに注力していたが、自分も地元にアクションを起こしたいという高校生に出会い、それを伴走し、ひとつサイクルを回した時に、地域で若者を育てること、バトンを託す存在をつくることが必要で、やるべきことだろうと舵切りをしていった。
彼女は小学6年生から高校を出るまで貴重な青春時代を過ごす無機質な仮設住宅を彩ることで、愛着を持ったまま仮設とバイバイできるようにするというプロジェクトをやっている。良い大学に行くのが全てではないが、彼女はAO入試で慶応大学入った。こういう活動を通して自分がどういう存在になりたいかを固めること、望んだ未来を自分達で得ていくのは非常に大事だと気づかされた。
ディスカッション
- (栗田)写真を撮ろうと思ったのは?
- (伊藤)数日前にスマホに変えていた。何となくまわしてたらたまたま映っていた。パニックすぎてあまり覚えてない。自分の声も入っている。正に叫んでいた。
- (栗田)宝来館の番頭さんをやっていた?
- (伊藤)フロントにいたり、変な宿でグリーンツーリズム、漁業、農業体験と宿泊のセットにしたプランをつくったり、そんなことを仕事としてやっていた。宝来館はちょうど1年前の2010年3月から働いていた。
- (栗田)最後の鍵を閉めて、普通はそれで終わりたが、そうじゃなかった。最初の1週間ぐらいは抱き合って命があることを喜んだ人たちが、一定の期間が過ぎると、あの人がだめだったとか、自分の境遇の限界みたいなところで、裏表を見ちゃったか?
- (伊藤)最初の1週間と次の1週間はぜんぜん違かった。
- (栗田)それを外の連中が少しずつ改善するのを見て、光が見えたというか自分達だけの問題でなく、その人たちにも役割りがある。頼ればいいんだと。
- (伊藤)頼ってもいい存在がこんなに来てくれるんだなと思った。地元のことだから自分達でどうにかしなきゃと思うがなかなかそうもいかない状況。そういう人たちとの出会いは本当に救いになった。自分は外の人との出会いで救われたから、自分と同じような人を増やすには、そういう交流を生み出すことだと思った。
- (栗田)現実が見えてくるほど、これから先どうなるか、どうやって生きていくか、そういう恐怖みたいなところが出てくる。表も裏も両方あって人間だから、それが被災地の現状。それを純粋に外から応援に来たいという人のなんて多いことか。これは宝来館のお客さんが来てくれた?
- (伊藤)宿なので外との接点も多かった。基本は宝来館の固定電話にいっぱい電話がくる。「こういう支援はいるか?」とか、いろんな支援があった。
- (栗田)それはどこでやってた?
- (伊藤)固定の場所がないので、町全体がフィールド。例えば宝来館の駐車場で待ち合わせて、今日はあそこの現場に行こうとか、それが3月とか4月くらいの動き。
- (栗田)社協のボラセンとは違う?
- (伊藤)連携はしていた。ただ範囲が広すぎたので、社協は中心部で我々は北の鵜住居の方でという住み分けをしていた。
- (栗田)合計何人ぐらいが駆け付けてくれたか。100や1000ではないでしょう?
- (伊藤)1万は超えていると思う。当時のカレンダーを見ると本当に気が狂いそうになる。どうにかしたいという思いもあったし、沢山来てくれるので、毎日いろんなことをやっていた。
- (栗田)人が来てくれて、そこをコーディネートするという目標があるうちはいいが、だんだんとそれもなくなってきて。元々観光の人なので、観光業に力を入れようとか、復興まちづくりだという時に、そうじゃないよという女の子との出会いがあった。自分の家をカラフルにしてる?
- (伊藤)彼女が言ってたのは「仮設住宅を誰も家と呼ばない」というところ。彼女たちにとっては仮設住宅も大切な青春時代を過ごす家に変わりがない。それをどうにかしたいというところにアクションを起こした。
- (栗田)自分の家だけか?
- (伊藤)いや、沢山いろんな仮設でやった。希望があって、それこそ年配のおばあちゃん一人暮らしのところも要望があって行ったり。ちょっとでも明るくなると気持ちも明るくなる。
- (栗田)こういう発想は若者だな。中野さんどう思った?
- (中野)自分の大きなコンプレックスで、津波を経験していないってのがある。地元に戻って活動していた時も「津波のごとわがってねぇくせに」と言われることもあって、それはかえられない。現体験の強さみたいなものはすごく違うと思うので、伊藤さんの話を聞くと鳥肌立つし、やはりすごいと思う。
- (栗田)同じ地元といっても、境遇が違うのでお互い学ぶところがあるという感じだね。この女の子も自分の家から始めた。それを見ていた人たちが「私もやって!」と広がっていくという、つながりづくりを伊藤さん達が支えてきた。最後に若い人たちにバトンを渡すと言ってたけど、あなた40でまだ早いんじゃない?
- (伊藤)おっしゃる通りで、一緒に活動する仲間を増やしたいというのはある。今現在はその方が正しい。
宮城県 吉澤武彦氏:課題とその背景
「カーシェアリングやったらどうや」と言われたのがきっかけ。これを言ったのが、神戸元気村のボランティア団体を立ち上げた人で、師匠であるバウさん。オゾン層保護活動を1300の自治体を回って回収する仕組みを作っていて、そのつながりを活かして阪神でも活動した社会貢献家。阪神淡路大震災の当時は姫路で高校生だったので、社会人になってからバウさんと出会った。
2011年4月9日、バウさんに呼び出され「避難されている方々が仮設住宅に移る。その中で自治会が形成され、色々な団体が支援を提案するようになる。そこでカーシェアリングを提案したらどうか」と言われ、引き受けますと言ったが、その時はまだ運転ができず、車は全くの素人。カーシェアリングという言葉も初めて聞いた。次の日から車集めを始めた。まずは四季報を買って、大阪の一部上場企業を自転車で回りながら、社長に車をくださいと。すると1台くれる社長がいた。その車をようやく石巻に送った。
石巻で何が一番地域のための貢献になるのか。一時の支援ではなく、世の中を変えるようなインパクトがある取り組みを石巻の人たちと作り上げることによって、支援される側から、支援する側になれるようなことが一番の貢献になるのではないかと思った。それが石巻の人たちの誇りや、石巻からの支援に勇気づけられるのではないかと思った。キャラクターはスートンとロールで石巻。県外でこのキャラクターを見た人たちが、これは石巻から来ている車なんだと言ってもらえることをイメージした。
ディスカッション
- (栗田)バウさんはポイントを抑える人ですね。
- (吉澤)1分の説明で僕の人生変わった。
- (栗田)それをやると決めたのもすごいけど、社長に車くださいとよく言ったね。
- (吉澤)車1台ぐらいくれるかと思ったら難しかった。カーシェアリングという言葉は、当時誰も使ってなく、それを使ったらどうやと言ったのがバウさんで、今ほど一般的ではなかった。
- (栗田)1台から始まって現在250台。何のためにやるかというと地元の人たちと一緒にやること、インパクトのある取り組みを作り上げるということがミソか。
- (吉澤)インパクトというよりも、雛形を作ることを意識した。その雛形を他の地域に伝えて貢献できるようにと思っている。
- (栗田)活動の面白いところは、地域の人たちが困っているから車を貸すんだと。でも、事故があったらとか、保険料については、どうやってクリアしたか。
- (吉澤)やり始めてややこしい部分が見えてきた。みんなで使いやすいようにするにはどうしたらよいか、意見を確認しながらやってきた。行政とも丁寧にやりとりを重ねた。7月に車を持っていって手続きがあり、10月からようやく使い始めることができた。契約など前例がなかったので、グレーな部分をギリギリのラインで探っていったが、堂々とやっていきたいので、真正面からやっていった。その結果、雛形ができて、今度隣の仮設でやっていこうという動きになった。
- (栗田)10年ですね。
- (吉澤)車に関する相談が沢山くるようになった。その都度情報を取りながら、色々な貸し方を考え、車で社会貢献するにはどうしたらいいか、いかに使っていくか。1台1台寄付をいただいた思い入れのある車なので、寄付してくれた方への恩返しも含めて10年やってきた。
- (栗田)石巻に10年住んで町は変わったか。
- (吉澤)今でも変わり続けている。
- (栗田)元々の交通弱者もいたわけですよね。
- (吉澤)そうです。今は被災関係ないエリアでも導入が進んでいる。最近は鳥取、岡山などでも相談が入ってきている。石巻でできた地域で車を使った助け合いをどうすればできるのか。日本中のあらゆるところで課題がある。公共交通機関で埋められない部分を、地域で助け合いながら補足する。やり方がわからない、管理をどうすればいいかと言われれば、そこは石巻でやってきた雛形がある。ようやく他の地域で生かせるようになってきたと思う。
- (栗田)伴走するのではなく、地域に任せていくということですね。
- (吉澤)やり方を地域でカスタムして、地域のオリジナルな形でやっていってもらう。それをレクチャーしている。
福島県 吉田恵美子氏:課題とその背景
私たちの団体は震災前20年間走ってきていたが、それはこの震災後走り出すための助走だと思うようになった。いわき市の浜側の地域は地震、津波を被った。プラス、原発事故の影響が色濃く地域を覆った。現場で見えてきたこと、聞こえてきたこと、私たちを動かした二つの言葉がある。
いわき市社会福祉協議会と連携して小名浜に立ち上げた災害ボランティアセンター。瓦礫が片付いて、ボラセンを閉めるか、続けるか話していた。当時いわき市は沢山の原発避難者を受け入れていて、その人たちがこの地域で暮らしていくにあたって何かという議論が進んだ時に、一所懸命ボランティアに通ってきていた高校卒業したての若者が「でも吉田さん、うちの親があの人たちは毎月一人10万円ずつお金もらってると言ってましたよ」という言い方をした。決して心の汚い青年ではない彼が、家の中で親から聞いたといって、そういう発言をしてしまう現状がいわきにあるとしたら、そのまま見過ごしてはいけないと思った。
もう一つ、震災の年の4月から6月に避難所で自炊の炊出しということを仕掛けていた。外部からの支援の食材も届けていて、当時、市場に出せなくなっていた野菜、季節栽培のものだったらきっと大丈夫ですよと運んでいたその農業者の方が言われた「とにかくこの後、種まいて育てて収穫の時にその収穫した物を買ってくれるかわからないから農業辞めるんだ」という言葉。今の福島の農業をそんな風に思う方はいないと思うが、地域の中でプライベートな場所で増幅されてしまうかもしれない偏見、コミュニティの断絶。
そういった問題を自分達の力で一つでも解決できないかということで思い当たったのが、外から来てくださる方たちの力も借りて行う有機農法でのコットン栽培だった。ふくしまオーガニックコットンプロジェクトという名前で震災の翌年から取り組みを始めて9年目。私たちは災害ボラセンをしていたので、ボランティアの方たちが外から来てくれることがどれだけ力になるかを痛感していた。岩手、宮城に比べると桁は違ったが、その方たちの思いが深く、元気をいただいた。同時に地域の中でお茶を飲みながらのサロン活動もしていたが、お茶飲みだけではなかなか親しくなれない人が、農作業を通して仲間になっていく様子を見て、この現場で原発避難者の方たちも、いわき市民も外部からの人たちも一緒になれたらいいなと場づくりを進めてる。みんなの畑という名前で避難者の方たちと一緒に栽培している畑がある。避難前農業だったおじいちゃん達が喜んで毎月通って来ては農作業に汗を流してくれている。避難生活の中で、自分が力を出す場所があるということの意味、コミュニティの中で役割りを持って生きていくという価値を取り組みの中で痛感している。
ディスカッション
- (栗田)いわきで生きていくと決めた人といわきを離れた人。まずはそれぞれの選択を大事にしようということだよね。
- (吉田)一つの家庭の中にもいろんな選択があった。地域の中では外に避難した方を逃げたという言い方をすることもあった。いわきは避難区域にはならなかったが、子育てをする中で避難しなければいけないと思うお母さん達にとってはそれが最良の決断だった。その決断を一つの方程式でこれが駄目、これが正解と決めてはいけないと思った。
- (栗田)吉田さんはいわき生まれ育ちで今も生活されている。選択をきちっとし、更に自分で活動する。そういうことをしている人になかなか理解がない時代、90年代って本当に走りですよね?
- (吉田)年齢がね。だいぶお隣と違うなというのは感じている。
- (栗田)年齢は関係なくすごいパワー。吉田さんを悩ましたのは、風評被害というか、福島というだけで物が売れない。特に野菜なんかはまだそういう傾向あるのか、処理水の問題もあれだけ大きな課題になってしまっているが、そういう課題を抱えつつの福島において、一つは小名浜の若者が「あいつ等は10万貰っている」という様な話を普通にしてしまうような。
- (吉田)普通ではない。普通ではないけれど、プライベートな場所でそれが世代を超えて増幅されていることに危惧をもった。その若者は避難者がいるような現場で声高に言ったりするようなことは決してしない。でも心の奥底にそういったものをため込んでしまい、お互いの気持ちを共有できないコミュニティを問題だと思った。
- (栗田)中野圭にしたって伊藤さんにしたって、故郷でしょ。その故郷にもう帰れないといった思いの人に10万円貰ってるからと、あんまりこれは。
- (吉田)当時のことですのでね。今でもという風には決して思わないでほしい。当時そういう状況だったということ。
- (栗田)もう一つが農業に関連して、なんでコットンだったのか?
- (吉田)まず一つは口に入れない、内部被ばくの心配がない。実は塩害に強い作物なので津波の後の農地でも栽培ができる。それからゴシポールという成分が種の中に含まれていて、哺乳動物の雄が摂取すると生殖能力を極端に下げる。浜通りエリアは人がいなくなった途端に獣害がひどい状況に陥っているので、イノシシがかからない作物だということも栽培の要因だった。もう一つはとにかく手がかかる。1年中なにか農作業がある。収穫が9月末から始まって、下手すると1月まである。収穫時期が長いということは、他から人が来て一緒に農作業を体験する場を提供できると考えた。
- (栗田)私も一回お邪魔してきゅっと抜けるから楽しい。でも1回や2回体験して面白いなぁといったら本当は駄目で、ものすごい手間が掛かっている。
- (吉田)最初はいい。入り口はふわぁとしているところで来てもらって、「じゃあ最初から栽培してみたいわ」みたいな気持ちを持ってもらい、次にまた最初から関わってもらおうと思っている。
- (栗田)ちょっとずつ商品としても成り立っているのか?
- (吉田)今日着ているTシャツもその素材でできている。茶色い和綿なので100%うちのコットンで物づくりをすると大変なことになるから、輸入した白いオーガニックコットンとミックスしている。茶綿が入ることによって生成りの製品になる、その製品の色に福島のメッセージを込めている。
- (栗田)そういって少しずつビジネスモデルもできあがったんだけど、それを支えたのが、3万人のボランティア。やはり外からの応援っていいですね。
- (吉田)今まで外部から3万人の方が来てくださった。本当にありがたい。
- (栗田)今でもオーガニックコットン栽培に人を入れている?
- (吉田)入れているんが、このコロナで。つい先週末にはじめて首都圏からのボラバスが来てくれたが、それまではボランティアの方をバスで受け入れることができなかったので、地域の者だけで頑張った。
- (栗田)そういう意味ではコロナ禍憎きだけど、地域をもう一回見直す機会にもなったという話も聞くがそこはどうか?
- (吉田)それは真剣に考えるようになった。地域の方たちとどうやって連携していくか考えるいい機会になった。
- (栗田)あの辺のみなさんが全員ウエルカムという訳でもない?
- (吉田)石を投げられたりしませんからそんなに悪くは思っていないと思うが、遠目で見ておられる方が多いと思う。
- (栗田)やはりいわきの中でも吉田さんは改革派だから変えていこうというところと、そこで静かに過ごしたいという人にしたらちょっと喧しい、そんな感じか?
- (吉田)地域の中にはあまり他から入って欲しくないという方もいらっしゃる。そういう方たちとうまく調整しながら、プロジェクトを進めていきたい。ある地域では、その方たちにも仲間に加わっていただいて会話をするような機会をもったり、収穫祭にお誘いしたり、少しずつ手は伸ばしながらも、無理にはお誘いしないようにはしている。
- (栗田)4人の方共通するが、Uターンであれ外部であれ、その時に支えてきた大きな力っていうのは今でも原動力になっている。その力がなかったら今の状態はありえないということなのだが、10年経て考えなきゃいけないのは、あくまで地元がどう主体としてやっていくのかということに支援者側の気持ちがあるかないかによってぜんぜん違う。基本的には地元がちゃんと主体にしていこうと。そこに上手な支援者の入り方、遠くからではないんだけども、受け入れのところが当時とはちょっと変わってきていて、それを上手にやっていかないと、ハレーション起こしたりしちゃうという、こんな感じですかね。伊藤さんどうですか?
- (伊藤)まったくその通りです。
トークセッション2「未来」
前半の振り返り
コーディネーター 栗田暢之
先ほどは過去と現在についてお話いただいた。非常にわかりやすく、中身の濃い話をお聞きした。今回は未来について。東北のこれからをどうしよう。ポスト10年、元々持っていた閉塞感、そういうものが東北のイメージにあるとするならば、それに対して未来をどう考えるか。あるいは、東北だけの課題でなく、日本全国に課題がある。更に災害が続いているという様な事も含めて、皆さんがどんな未来を描こうとしているか。大いに一人ひとりの夢を語っていただきたい。
岩手県 中野 圭氏:未来
色々な方々が犠牲になって、そのうえで生きて暮らしているので、生きている意味を考えている。ひとつ、人と人との関わりを豊かにすることを掲げている。小学校の時に阪神淡路大震災があって、その時はどうしても他人事で、何かやれたわけでなく、強く動こうと思ってやれなかった自分がいた。
東日本大震災は自分の地元のことなので、自分が動くのは当たり前だったが、全国、全世界の方々に思いを寄せて、動いてもらって、以前動けなかったことに罪悪感、なんで何もやってこれなかったんだろうと悔しい思いを感じた。日本中、全世界で、例えばシリアなどで涙も血も流している人もいる。そういうことに関心を持っていくことができたら、社会はもっと面白くなるのではないかと思うし、そういう風に思われる街を作っていきたいし、色々なところにいる人との関わりを豊かにしていくことで、何かあったときに助けに行く、遊びに行く、気持ちを寄せるという地元、東北、日本、社会を作っていきたい。今、漁業を含めて色々なことをやっているが、人との関係を豊かにしていくということが大きな目的。今日見ている人たちとも繋がって、色々と考えていきたい。
ディカッション
- (栗田)阪神大震災、小学生で何もできなかったと。
- (中野)東日本大震災は日本国民が全員何をしていたか覚えている日。阪神淡路大震災の日のことも覚えている。
- (栗田)様々な社会課題を見る中で、そういう課題を他人事にしないように人と人が繋がって一緒に考えていくということですね。具体的にはどう中野さんと繋がればいいか。
- (中野)人と人が繋がるというのは、自分のことをもっと知ってもらいたいし、いろんな方のことも知りたいと思うので、まずはSNSやオンラインで具体的に繋がれる機会を増やして、現地に来てもらうということも考えている。
- (栗田)あとはホタテ買ってよと。今年のホタテはどうですか。
- (中野)なかなか難しいです。それもSNSで伝えている。
岩手県 伊藤 聡氏:未来
若い世代が地域を主語に活動している姿。震災の前にそういう姿があったかというとそうではなかった。24歳から市民活動をやっていて、市が主催する○○委員会の様なところに若者代表で呼ばれたが、町の重鎮達に囲まれて、自分の意見を言えるかというとそうではなかった。そういう場に若者がいることが大事だと参加し続けていたが、あまり未来や希望を見い出せていなかったのが正直なところ。震災の後に20代~40代の若い世代も地域にコミットして活動している姿は、震災前に理想としていたもの。東日本大震災がきっかけだが、そういうことに可能性を感じている。
東北は負け続けの歴史という気がしているが、開発が遅れていたからこそ、日本らしさ、地域らしさが残っているというのが強味な様な気がする。東北に限らず、地方都市は課題だらけなので、若者にとってはチャレンジしやすいフィールド。地域らしさと地域の課題という挑戦できるフィールドに囲まれて成長していけることに可能性ある。東日本大震災から日が経っていっても、そういうものがしっかりと持続していく状態を作り上げることが自分で成し遂げたいところであるし、そうしないと亡くなった人に申し訳ないなという気持ちも持っている。
自分のところは大学が無いので、志が高い若者は基本的に転出していく。それは仕方がないことなので、外の世界を見てUターンして帰ってきたり、釜石と関わるような仕事をつくるとか、逆に世界に飛び立っていく様な、三陸で育った若者の価値みたいな、世界に通じるような次代育成の場にしていきたいし、東京生まれ三陸育ちみたいな、そういう存在が増える環境にもなったらいいなと思う。
自分は本当に地元が好きで、ずっと活動している。その原点は、やはり地元が好きだという郷土愛。地元が好きだからこそいろんなアクションを起こすことになると思うので、地域らしさが残っているという強味を活かした未来を若者と一緒につくっていきたいと思っている。
ディカッション
- (栗田)釜石含めて、東北は広すぎて一つとして同じ地域はないと思うが、特に釜石が好きだというのは、自然、人、雰囲気、なんですか?
- (伊藤)よく聞かれるが、理由はないと思っている。自然も豊富だし、まわりの人にも恵まれているので、それら全部と思うが、気づいたらたら好きだった。
- (栗田)自由さかね。何でもありというか、自分の生き方が表現できている、そういう土壌があるんだろう。若者を温かく見守るとか、やってみろとか、市民活動で駆け出しの頃も60代の自治会長かなんかにかわいがられて。育ってるんだよね。
- (伊藤)まったくその通りで、その世代に育てられたという思いはある。まだまだ届かないところもあるが、そういう存在になっていきたいと思っている。
- (栗田)次の世代ということにこだわっていて、特に高校生、これは何をやっている?
- (伊藤)特に自分の地域でこういうアクションを起こしたいとか、こういう課題があるからこういうアクションを起こすんだという子たちの活動のフィールド。2019年のW杯のスタジアムの会場で高校生と一緒に語り部の活動をした。ラグビーを見て良かったと帰るのは当たり前だが、それだけでは釜石でやる意義が薄い。世界中に支援いただいたことへ感謝を伝えたり、防災の大切さを伝えるために高校生と何ができるかを一緒に考え、2分間の語り部のプログラムをつくった。750人位が足を止めて聞いてくれた。
- (栗田)ちゃんと伝えることがあるということを伊藤さんがやるのではなく、高校生に仕掛けた。そこがミソだね。高校生も頑張ろうとするんじゃない?
- (伊藤)やはり意識はしていて、W杯の誘致が始まった時から、どうやったら関われるか考えている子は結構いた。こういう活動することでその思いを実現できた。
- (栗田)W杯はある意味、お祭りの一つに過ぎない。その後を大事にしなければということで、語り合うとか発表ですかね。
- (伊藤)良い活動も高校3年生になると受験モードになり活動ができなくなり、持続性は低い。だったら、高校生の伝承活動のグループを作っちゃえと、高校2年生の女の子がメインとなって、30人が共感して夢団という防災や伝承活動するグループができた。
- (栗田)若い人がチャレンジできる、そういう可能性を広げていく活動が大事なんだと。それが未来、当面の目標であると。しかも、さっき面白いことを言った。「東京生まれ三陸育ち」と。東京で苦しむ人は三陸に来なさいと。そういう人も受け入れながら、愛すべき釜石を盛り上げていきたいという感じですかね。
宮城県 吉澤武彦氏:未来
寄付車を使った取り組みを石巻から広げていくミッションがある。この10年は雛形を作るということに費やしてきた。これから次のステージ。雛形の精度をあげて、他の地域に貢献していくことを進めていきたいと思っている。具体的な動きとして、九州の佐賀県武雄市に支部を作った。九州は災害が多いので、石巻から九州まで車を運ぶには8日もかかる。武雄からなら翌日届く。2025年までの目標を作っている。3つの事業それぞれ、
- コミュニティカーシェアリング:チャレンジできる地域が気軽にチャレンジできるようにしていきたい。必要なノウハウを伝えていく。
- ソーシャルカーサポート:宮城、佐賀では生活困窮者の支援をしているが、全国各地に車はあるのでもっと広めていきたい。NPOや困っている人の支えになるようなことをやりたいと思っている。
- 災害支援:東日本大震災は甚大な被害があったが、同じ規模の災害が起こらないとは限らない。それと同じことが起こった場合に対応できるように連携を作っていきたいと思っている。災害が毎年起こっている。高齢化という時代のなかで具体的な対応、石巻で生まれた立場からできることを進めていく。
ディカッション
- ノウハウ、仕組みを全国に届けていきたいという、地域地域にそういうものが必要だという、一つ一つの積み重ねをされている。フロム石巻だからいいというのもある。
- 被災地で車の貸し出しで石巻から来ましたというと、私たちもいずれ支援をできるようになれるかもしれないというやり取りがある。そういうことを作っていきたいと思っている。
- (栗田)支援のリレーにつながりますね。
- (吉澤)今、スタッフは地元のメンバーが8割。実際に震災を経験した石巻のメンバーでそういうことをやっていきたいと思っている。
- (栗田)レンタル料は発生するのか?
- (吉澤)災害のときは無料で貸しているが、レンタル料が発生するものもありる。車は無料でもらっても維持費がかかる。それを安く貸す仕組みを考えていて、メンテナンスは地元の車について学んでいる学生にやってもらうなどしている。
- (栗田)ビジネスモデルを作っているんですね。私も同様な経験があって、東海豪雨のときにJCさんに資機材を買ってもらって、これまで40箇所ぐらいの被災地に貸しているが、増えて帰ってくる。ボランティアの汗と涙が染み込んだもの。カーシェアリングも同じだと感じた。
- (吉澤)提供した車が被災地に繋がっていっている。
- (栗田)皆で繫げていこう、皆で支えていこうことになっていくといい。
福島県 吉田恵美子氏:未来
スライドのおじいちゃんは避難者の方。みんなの畑で、コットン栽培の手伝いをし、いわき市内の他の農家の手伝いにも行ってくれるようになった。支援を受ける立場だった人たちが、地域にとっての支援者になる。立場が変わることが大きなきっかけになることをおじいちゃんの笑顔が表している。
オーガニックコットンプロジェクトを通してつくっていきたい福島の未来。先ほど3万人の方が応援に来てくださったと言った。最初その方たちははかわいそうな福島を応援しようという気持ちでお出でくださったが、今も気持ちを寄せてくださるのは、かわいそうな福島ではなく、一緒に未来を耕す仲間だからと思っている。
プロジェクトを始めて2年目にビオファ・ニュールンベルグに私たちの製品を持って出展に行った。オーガニックな商品が並んだ展示会の中で、日本の出展ブースの狭いこと、貧弱なことにびっくりした。当時、日本ではオーガニックであることの商品価値はなかなか認められていなかった。その在り方を福島から変えたいと思っている。コットンは世界中で栽培されているが、すごく環境負荷をかける作物。農薬を多用し、葉が邪魔だと枯葉剤まで使い、人手が必要だと子ども達を学校に行かせずに労働させて収穫する。それで天然素材ですという顔で店頭に並んでいる。その在り方を、環境でダメージを受けた福島から、かわいそうな環境状況に追い込まれたと思われている福島から変えていく。ローテクな取組みではあるが、きちんと未来志向のプロジェクトとして進んでいきたいと思っている。
いわきに関していえば、震災はすでに復興が終わった過去の出来事で、どちらかというと目を背けたい状況にあるように思う。私たちがコットン栽培を小学校で呼び掛けて行くと、子ども達は震災のことをほとんど記憶してないし、継承も受けていないのが現状。コットン栽培を子ども達とすることは、産業教育や環境教育の側面もあるが、震災教育として、この地域でどんな災害があって、そこからどんな思いでこの地域を再生したかということを伝えていくツールとして活かしていきたいと思っている。
福島では先端技術、イノベーションコースト構想で再生を成し遂げていこうという動きが加速していこうとしている。新しい技術が入ってくることは悪いことではないが、地域をつくる主体、住民がきちんとこの地域をどういうものにしていくかを考える、そのためのノウハウや経験値というものを蓄積していかないと、福島の未来は上っ面のものだけになってしまうのではないかと懸念している。このプロジェクトを通して子ども達に福島の2011年3月11日のこと。今、10年後、そしてこれから100年後の福島をどう作っていくかを考えてもらえるようなきっかけにしたい。
ディスカッション
- (栗田)支援を受けていた人が支援する側になっていくという。やはり人はもらうばかりでは辛い。そういう場をみんなの畑で提供をした。
- (吉田)このカボチャはコミュニティ食堂の材料になる。
- (栗田)かわいそうな福島と来てくれた支援者。そうではなく、一緒に未来を耕そう。みんなが支援者となって福島のことを考えようという場にもしていきたい。仲間づくりという意味では重要な絆を深める作業をしている。コットン栽培についても、いろいろな問題がある。そういうことではないコットンをいわきから起こしていこうと。それをやること自体が震災の伝承、教育であり、子ども達にこそ関わって欲しい。今のところイノベーション構想みたいなのがいろいろ出ているけども住民不在で、もうちょっと住民と一緒にやってくれないかという話。おっしゃる通りだと思う。そういう意味では官民連携と云いながら、今の畑を耕すおじいちゃんがそういうことを関わるかというと関われないので、その代弁として吉田さんの存在は大きいのではないか。
- ということで、実現できることできないことあるかもしれないが、自分がこういう町にしていきたいんだ。自分はこうチャレンジしていきたいんだということを4人のそれぞれの言葉で夢を語っていただいた。ここでご参加の皆様からご質問があればお受けしたいと思う。
質疑応答
- (質問者①)中学校でお世話になったスクールカウンセラーがいわきの人で、東北に何かしたいと思っていた。コロナもあって東北に行けないが、徳島にいて何かできないか。
- (伊藤)釜石高校で放課後の居場所づくりをやっている。オンラインで色々な人の話を聞くということもしている。さらに一歩踏み出したい、釜石外の人と触れ合うことを大切にしている。オンラインで実施しているので、そのような関わり方があると思う。
- (栗田)今日もオンラインでこんなに多くの人に繋がれているので、高校生と意見交換しませんかというような説明会を開いてもいいのでは。
- (質問者①)自然学校についてもっと詳しく知りたい。オンラインで聞くことができれば。(吉田)報告会をオンラインで行った。現場の畑とつないで中継した。そういうものにぜひ参加していただきたい。あとは地元の大学生とオーガニックコットンの商品アイディアコンテストもやっている。コットンベイブちゃんは皆からのアイディアで生まれた商品。
- (中野)NPO法人wizでは大学生のインターンシップのコーディネートをしている。岩手の企業、団体などと繫いでオンラインインターンシップを行っている。漁師は取ったものをそのまま売っていることで付加価値を付けられていないので、地元の加工業者と組んで販売という動きをしている。今、近畿大学の学生に入ってもらって、どういう風にPRできるかをオンラインで一緒にやっている。よかったら繋がってもらいたい。
- (質問者②)被災地域が他の地域と違うのは、ひょっとしたら停滞していたかもしれない状況に揺さぶりが掛かって、外の人がかなり入って来ている環境。ローカルで被災するケースが多いので、眠っていた課題も顕在化し、地域がコンパクトであるがゆえに課題がわかりやすくなっている。そういう中で外の人と沢山交流して、地方発の面白い、希望や誇りの持てることができるか一緒に考えて生み出す。被災地の方々全員プロデューサーという気構えでやっていくといいと思う。高い志も必要だが、面白いとか、繋がって良い関係が築けたというものがあってこそ続くのかなと思ったので、良い繋がりを持って続けていく。そこに住まなくても関係人口で繋がっていく。そういう細くても切れない糸をどんどん皆でつくっていくことではないかと思っている。 これは日本を救うモデルになるかもしれない。OECD諸国の中で日本は断トツに孤立している人が多い。そういう状況の中でこの被災地発の試み、人の繋がり大事にしながら、面白いものを生み出すと、先ほどのカーシェアの方もお話していましたが、雛形みたいなものをつくってどんどん発信していけるようになるとおもろいと思った人がまた集まってきます。そういう風にしていけるといいなと思った。
- (栗田)車屋さんですよここ。
- (質問者②)そうなんです。さっきカーシェアの方のお話を興味深く伺って、これは勝てないなと思った。
- (吉澤)是非一緒にできたらいいなと思う。
- (栗田)まさしく皆さん4人ともその通りで、おもろいことを人と人との関わりの中で上手に外部支援を取り入れてやっているという、今日のまとめにもしていただいた。
私も様々な想いを持って今日を迎えた。中野さんが他人事にしない自分ということを訴えられた。どこかで何かあっても、自分には関係ないと思ってしまう方々が少し勇気をもって手を繋いで、何かできることがあるんじゃないかという人の輪をつくっていくとことが重要。そこに伊藤さんも、若い人を取り入れ、巻き込もうという動きをしている。吉田さんが言われたように、もう少し深いところを考える時、今世界を見た時にこれでいいんだろうかという疑問を持ちながら、今まで支援を受けていた人が今度は受け入れる側にまわろうという勇気を与え続ける。しかも、吉澤さんが言われたFROM石巻、FROM東日本というのは、次の被災地でも共感を持って、繋がりづくりしやすい。
東日本大震災が起こってしまった事に対して、私たちが今4人にお話しいただいた様なことをしっかりと胸に刻みつつ、10年で終わりじゃない「まだまだこれからおもろいこといっぱいあるでぇ」ということを私自身も学ばせていただいた。ご登壇の4人の方に大きな拍手でお礼を言いたいと思う。ありがとうございました。
閉会挨拶
東日本大震災支援全国ネットワーク 代表世話人 山崎美貴子
ありがとうございました。全国各地からご参加のみなさん80名を超えていると伺っている。これまで現地会議を含めてやってきたが、これで最後となる。ご支援いただいた復興庁にも感謝申し上げたい。
この会議は、大切なことはなんだったのか、自分事として、思う、知るということだった。4人の皆さんは10年間続けている。地域の持っている力を引き出しながらこれを広げていこう、世界的な規模にも深くつながっていこうという心意気。農業、漁業、カーシェアリング、若者をどう育てていくのか。テーマは違ったが、いずれも地元の持っている力と外の力を、ドアが災害によって開いてしまったことを閉じることなく、みんなが動き出す一歩にしている。
中野さん、ホタテも大事ですけど、ぜひ地域のこともぜひお願いします。
吉田さん、自然が持っている力がどんなに大きい力なのか、自然を壊さない農業がどんなに大切なのかみんなに伝えてください。
吉澤さん、カーシェアリングは本当にすごい取り組みですね。ハグしたいほど魅力のある話でした。師匠の言葉から実践される力が大きいと実感しました。
伊藤さん、若者が持っている内在している力を次の世代につなげていこうとされています。
4人の皆さんが持っている力をこの姿を、未来を、地域から地域の外へ向かっていく姿を伺うことができました。今がわかる会議、ずっと参加してくださった皆さん、止めてしまうことではなく、J C Nは歩き続ける。皆さま引き続きご支援をお願いする。ありがとうございました。