東日本大震災支援全国ネットワーク(JCN)

現地会議

3.11の今がわかる会議 2021 テーマ1:2回目

開催概要

タイトル 3.11の今がわかる会議 2021
テーマ1 「10年経過した今、福島の暮らしの現状と課題とは」2回目
日時 2021年11月27日(土)13:00-16:30
会場 オンライン(Zoom)(双葉町産業交流センター・FUTABA POINTより配信)
主催 東日本大震災支援全国ネットワーク(JCN)
助成 復興庁コーディネート事業
後援 特定非営利活動法人いわて連携復興センター
一般社団法人みやぎ連携復興センター
一般社団法人ふくしま連携復興センター
一般社団法みちのく復興・地域デザインセンター
参加者数 50名(一般35、登壇6、来賓2、スタッフ7)

内容・登壇者

開会 ・挨拶

ジャパンプラットフォーム 池座 剛 氏

東日本大震災、福島第一原子力発電所の事故から10年が経過した。今日参加された皆様も様々な立場から参加され、それぞれが福島と向き合ってきたかと思う。たとえば福島の被災者支援と言っても、福島県内で避難されている方もいれば、福島県外に避難されている方もいる。また、避難されていたが帰還された方もいれば、避難はしていないが不安の中で暮らされている方もいる。私も2011年3月から、当時はJCNの地域担当の駐在員として、途中からJPFのスタッフとして、福島に関わらせていただいていますが、やはりその際にも別々の事業として、県内・広域と分野を分けて支援者同士の連携、資金提供の事業などを実施してきました。分野も様々で、子育て世帯の母子への支援や心のケアの支援、困窮者支援、また県内の方向け・県外の方向けなど様々な形で分けてきました。異なる状況に置かれている方々が原発事故発生から10年の時を経て、福島という一つのコミュニティとしてそろそろ語ることができる時期に差し掛かっていると考えています。本日はテーマ①の2回目ということで、10年が経過した今、福島の暮らしの現状と課題を考えていこうということで、1回目に挙げられた課題とか現状をもとに、これからの福島で必要なことは何だろうということを本日語られるのではないかと思います。異なる立場に置かれ、様々な形で関わってこられた方が一堂に会して、ご参加される皆様も色々交流する機会もあると思うので、本音で語り合って、福島に必要なことが少しでも見えてくれば良いと願っている。

来賓挨拶:中山 理 氏(復興庁 参事官)

東日本大震災から10年が経過し、11年目を迎えるにあたり、インフラは整備が進み、復興も着実に進展しているが、同時に引き続き取り組みが必要な課題、また新たな課題も明らかになってきていると思う。今回は福島の復興に携わっているNPO団体や県内・県外避難者支援団体の方々にそれぞれの地域における暮らしの課題や関わり方について、改めて地域の復興やその先の未来に向けて活動されている方ならではの視点や知見、これまでの経験といったものを共有させていただく機会。復興庁としても各被災地域の復興の進展に伴う課題に対応したNPOの皆さまときめ細かい活動を引き続き支援していきたいと思っている。本日の機会が被災地の現状を知り、東北の未来づくりを全国の皆さまと一緒に考えることで、非常に活発な議論が行われることを期待している。

トークセッション(第1部)

篠原洋貴 氏(災害支援ネットワークIwaki副会長)
  • 栗田:コロナもあってなかなか現地入りできませんでしたが、3年ぶりに福島から参加している。今日常磐線で双葉に来た。青々とした普通の海が何事もなかったかのようにあった。北へ進むうちに段々風景も変わってきて、ダンプが行きかったり、ソーラーパネルが見えてきたりと、色々な風景の変化も感じた。双葉駅で降りると広野や富岡とは全然違う風景だった。人が住んでいないので家々からは破れたままの障子やちぎれたカーテンが見えた。来る途中の電車で車内を走り回るかわいい子どもがいて、すごく嬉しそうでした。この子は震災のことを知らない年齢で、この子達にどういうことが起こっていたか伝えいかないといけないと思いながら、伝承館にも行った。前回の基調講演いただいた、藍原さんが「福島の10年」のあとがきに書かれていますが、「重い荷物を担いで息が上がって苦しいときも、支えながら伴奏してくれる人がいて、あたたかく励ます声がずっと聞こえてくる。これが人間の復興なのだ」と仰っている。まさしくその通りで、私たちはソフトの所をどうやって考えていくか、息が上がった方をずっと応援し続けているパネリストに一人ずつ、福島の現状や課題、前回プラス今後どうしたらいいか、どうしていくべきかにも言及してお話を進めさせていただければと思っている。それではトップバッターとして篠原さんからお願いしたい。
  • 栗田:前回もいわきの課題を整理されてお話されていたが、一つはいわき市民自身が津波によって被害を受けていること。そして、原発事故の避難者の受け入れもいわき市は非常に多い。約3万人ほどだったか。その方々はいわき市社協の管轄ではないという、そういう分断も多少あるというお話もあった。住民自身がサロンをやらないといけない。ちょっと関わりすぎたところもあるか?
  • 篠原:そこは往々にしてある。これは支援者の問題。もう少し地域住民を主体的に動かしていくというか、地域住民が主役ですよと。逆に私たち(支援者)が主役で地域住民の皆さんはお客さんみたいな支援があったのかなと思う。
  • 栗田:そこは今後変えていかないといけないと。復興公営住宅の課題というところは、篠原さんの立場からするとあまり突っ込みにくいところ?
  • 篠原:正直、突っ込みにくい。いわき市に復興公営住宅があるが、そこはまた違うところという感じ。これまでの10年間でまだ抜け切れていない部分がある。
  • 栗田:補償の問題が根強く残っているのか。そういうことを一つ一つ丁寧に解きほぐそうとして10年、色々な事業に取り組んでいらっしゃったかと思う。「個別支援を基盤とする地域支援の展開としての生活支援相談員と避難者地域支援コーディネーターの配置」とあるが、これで解決するのか?
  • 篠原:そこを足掛かりとしていきたい。いわゆる復興公営住宅という一つの団地でモデルが出来上がれば、そこを足掛かりに地域でもそういった視点をもってやっていけるのではないか。
  • 栗田:生活支援相談員の戸別訪問を中心にしながら、ご高齢であったり、様々な事情を抱えている方など、そういう意味では生活支援相談員の存在は重要だと思う。そういう方々プラス、地域全体を支えていく人たちの存在として、避難者地域支援コーディネーターの存在があると。清水さん、この制度に対していかがか?
  • 清水:制度というのはやはり縛りがあり、制度がない方が動きやすい部分もあると思う。私たちはデイサービスを制度の中でやっているが、介護保険もいずれ崩れていくと思うので、制度を使わないデイサービスの重要性もすごく感じている。別の事業でがっちり儲けて、その儲けからデイサービスを運営していく職員を雇えば介護保険に請求しなくてもやっていけるので、そういう利用者が作った加工品がすごく売れるような、利用者自身も働いて健康維持しながら、給料をもらい、なおかつ職員を自分たちで雇っているような形の方が、子ども達に借金を残さずにできるのかなと思う。
  • 栗田:制度は制度として活用しながら、どうやって一人一人が参画するというか、一緒に地域づくりなり、施設の対応の中で与えられるだけでなく、自分たちから動けるような仕掛けをしていかないといけないということか。
清水裕香里 氏(NPO法人 Jin 代表)
  • 栗田:浪江町では、除染は進んでいて帰宅困難区域はまだ残りつつも、戻れる地域もある。一方で、人が戻らないという現状がある。戻ったとしても高齢者が多い。ご高齢の方といってもどのくらい?
  • 清水:90代の人もいる。65~70歳の方が町の方に住んでいる。
  • 栗田:そういった方々を施設として受け入れる要となっているのが、Jinさんがある。農業もやられているから、「広大な農地が耕作放棄地となっているからなんとかしてくれないか」と言われているのか?
  • 清水:その通り。浪江には戻らないし、息子も農業をやらないから、やってくれる人にやってほしいということなんだと思う。ただ、その受け手がない。
  • 栗田:たとえJinさんがやろうと思っても人手が少ないということ。そのちぐはぐな感じが浪江の現状なのか。
  • 清水:ちょっとずれ感があったのだと思う。少し前は畑を貸してくれと言う人がたくさんいた時に、貸してあげれば問題なかったが、そういう気持ちが覚めた時に、当時貸したくなかった方が反対に急に貸したくなったりして。
  • 栗田:なんでズレてしまったのか。
  • 清水:わかりません。自分の土地を手放したくないという気持ちはあったのだと思う。
  • 栗田:それは一つありますよね。土地を買いたいという人たちはどういう人?
  • 清水:工場を建てたい、新しく農業をやりたい人など。
  • 栗田:帰宅困難区域から解除された段階で、色々な仕事の場にしようと思っていた方もいらっしゃったのか。
  • 清水:そう。アパートも借りたくても町の臨時職員が来た時用に町が押さえていて、一般の人が借りられない。空いているのに貸してもらえないという状況があって、今だと不動産会社の「売ります」という看板があちこちに立つようになって、こういうのはもう少し早い時期に売った方がよかったのではと思って。どっちみちみんな賠償金をもらって、土地や家のお金をもらっているから、別に二束三文で売ってもいいと思うが。
  • 栗田:それはそうならないかもしれないが...でも、そう思ってしまう現状があるということか。その中でJinさんはご高齢の方や障がいをお持ちの方、一人一人の特性を生かした仕事をやってもらっている。そしたら皆さん生き生きしますね。
  • 清水:いわきの方たちといわきに避難した方が交われないという話も確かにそうだなと思う部分もあって、同じ町内でも感じる時がある。ある方は住宅の宅地を2区画買って豪邸を建てる。いわきだってみんな避難して、いろいろな思いが芽生えるのも当然じゃないかなと思う。
  • 栗田:見せられるとそう思ってしまうこともあるかもしれない。やはり一人ひとり、あの日大変な思いをして、一生懸命歩いてきた方たちなので、どうやって折り合いをつけるかなかなか難しいことかもしれない。そういうことに関わらず、Jinさんはその地域に生きようとする方たちの一人一人の人間力を信頼しているのだと思う。前回、清水さんからの言葉で印象的だったのは、「『一人ひとりのたった一度の人生をどうやって生きるのか』ということが一人ひとりに問われているのだ」と言っていて、そこをJinさんとしてお手伝いしているということ。
三浦恵美里氏(特定非営利活動法人 ビーンズふくしま)
  • 栗田:前回でもお話ありましたが、役割が変わってきたという感じですか。この間、三浦さん自身も3.11が近づくと、不安になったりされると仰っていた。
  • 三浦:そう、思い出す。
  • 栗田:それはこれからも完全に消えることはないのかもしれないが、時間の経過とともに薄らいでくるのであるとすれば、原発避難という多層した複合災害という福島ならではの子育て、あるいは自分の悩みを聞いてほしいなど、そうしたニーズにはままカフェにはあって、多くの方が利用されてきた。そこから5年くらいが経過・変化してきて、その時によって県外から4割というのは福島に転勤で来られた方で、福島の暮らしに不安がある?
  • 三浦:「放射能ってうつるのですか?」という声もある。そこからご丁寧に寄り添って話をするところから始まる。
  • 栗田:そう思っている一方で、「私は転勤しているのだ」ということにしている人もいる?
  • 三浦:そう。本当は避難先から来たが、周りや学校には転勤で来たことになっているという方もいる。
  • 栗田:まさに一人ひとりの課題。そこにも向き合うというのがままカフェの重要な役割なのだと思う。ずっとお聞きしていて、福島の多岐にわたる課題がそれぞれ出てきた。私はまとめるつもりはなく、むしろまとめることはできないが、そうした多様な課題が現存しているのだということ。篠原さんは立場上断りにくい立場なのでは?
  • 篠原:そう。
  • 栗田:本当はこうした方がいいと思うことはあっても、制度上そうしないといけないとか、色々な狭間の中で断りにくい立場なのかなと。三浦さんの場合は、その時々に応じてまずは聞くという姿勢で、ご自身もその場で癒されているのかもしれない。
  • 三浦:その通り、一緒にママとして。
  • 栗田:なかなか男って言えない。澤上さん、パパはどうですか?
  • 澤上:パパは酒飲むしかないかもしれない。
  • 栗田:三浦さんのようにとにかく聞いて、一緒に課題を解決していくなどそういった特徴が出てきた。ここからは、住民自身のここから一歩踏み出していく力をエンパワメントしていくのか、地域自身が課題に対してどう取り組んでいくのか、そのような課題を抱えた中越地震にずっと関わって話をされてきた岩手大学の福留先生に今の話を聞いた感想と、中越との比較をアドバイスいただきたい。
  • 福留:新潟中越地震からの復興でも繋がる部分はあると感じた。最初にお話いただいた篠原さんについても、災害公営住宅、復興公営住宅での課題というのは、中越でも同じような課題があった。阪神淡路大震災の時でも似たような話があり、阪神淡路大震災では孤独死の方が多かった。もともと戸建てでお住まいだった方が被災されて、自力再建が難しくて災害公営住宅になるということで。極端ですがお風呂を入れるのにもボタンを押さないとお風呂がわかないとか、インターホンにどうやって顔を映せばいいのかなど、そこから戸惑う方がいるというのは事実だと思う。入居された方の中でどうコミュニティ・自治を育てるのかということについては、やはり阪神淡路の頃から言われているが、災害公営住宅に入居される方は年配の方が多く、男性はそういった住宅に入ると、以前のように繋がりを求めて顔を出すことはしなくなる。それを周りがどうするかについてだが、出てこない方に出てくるきっかけづくりをするというのが求められるのではないかと思う。新潟中越の時は、周りの町内会や任意団体でイベントがあったら声をかけるなどしていて、そういったことが必要なのかと。東日本では宮城など仙台でも非常にたくさん災害公営住宅が建ちましたが、やはり石巻など色々なところから仙台の災害公営住宅に入っていた。極端に言えばゴミ出しの仕方一つでも地域によって違っていて、そういう中で新しい暮らしを作っていかないといけない。最初はトラブルもある中で、「そういうこともあるよね」とそれぞれが認め合うというか、納得まではいかなくてもそこからどうしていくか考えていかないと。時間をかける中で相互に理解して進めていくことが必要だと思う。先ほどの話に戻ると、来た人自身が新しい暮らしに馴染めるかということだと思うが、入居された方は高齢の方が多く、元の地域への想いがある。それらが満たされることによって、自分が住んでいる身近な地域や災害/復興公営住宅についても考えていくというような時間が経過しているのだと思う。その点では、もともとの地域がどう変わりつつあるのか、災害/復興公営住宅に入っている方からしたらすごく大きなこと。いずれは自分が住んでいる住宅にもどう向き合うか考えていくことに落ち着いていくのだと思う。そういう意味でも、新しい住宅だけで何かやっていきましょうということではなく、その人のそれまでの歩み、震災以前のことにも住んでいなくても、色々な形でお知らせしたり、お声がけすることでその人なりに慣れていくのではないかなと思う。
  • 栗田:中越復興市民会議でも稲垣さんとは色々話はしているが、やはりそういう支援団体のセンスの良さが際立っている事例もあって、最初に仮設住宅や災害公営住宅に関わる人が黙々とご飯食べている交流会がある。その話題の中で「今の若い嫁たちは笹団子の作り方すら知らない。だから俺が教えてやる」とあるおばあちゃんが本当は入ってはいけない避難指示区域の家から餅つき機を持ち出してきて、仮設のコミュニティの所でいままでは上げ膳据え膳されていた人が今度は先生になって、上げ膳据え膳してきた人たちに教えるという逆転現象が起きたという話をされていて、そういう仕掛け方は非常に上手いと思った。そこの人は自分の役割があるのでやはり生き生きしていて、そういう仕掛けが必要なのか。
  • 福留:先ほど仰られたように、色々な市民団体や中間支援団体がどのようにきっかけづくりというか、つなぎ役になれるか。野球でいうスカウトのような人が観察しながら、この人にはこういう特技があるなど、清水さんも仰っていたその人の特性や特技を引き延ばすことが大事だというように、つなぎ役にあたる人、機会づくりをするような人や関わる団体が良いスカウト役になることが必要なのかと思う。三浦さんからままカフェの話をいただきましたが、中越も復興の中で子育てサークルが作られた。今では地方都市でも子どもを自由に遊ばせられる空間がないということで子育てサークルができた。子どもを半日なり思い切り遊ばせたいということで遊びに行った相手先が実は被災したある集落。そこの集落からすると子どもがずっといなくて、十何年ぶりに子どもが遊ぶ姿が見られたと言うような、そういった集落ですが、子育てサークルとしては子どもが自由に安心して遊べる場所がないというので、つなぎ役の方がそういう集落ならおじいちゃん、おばあちゃんが面倒を見てくれるよということで、町中の子育てサークルが被災して高齢化も進む集落で時間を過ごすといった形が生まれた。被災した集落としても普段は聞こえない子どもの声が聞こえて、少し元気が出たという話があった。そういう意味では、いかにニーズを拾い上げてどこに繋げるかというのが、ますます福島をはじめとした東日本の被災地ではそういうのが期待されるのではないかと思う。
  • 栗田:子どもがいるだけで場が盛り上がったり、こっちまで明るくなる。本当にお年寄りと子どもの交流はキーワードになると思う。その瞬間を生で見てきましたが、やはり子どもの持っている力はすごいなと思う。お年寄りと子どもという関係で、北村さんは若者という部類だったと思うが、中越の被災者として、コミュニティの再生に若者がどう関わっていくかとどう考えているのか。
  • 北村:当時は中越の大きな特徴として、中山間地域の被災だったので、もともと高齢化が進んでいた集落だった。若者がもともと関わる機会がなかったという点がある。先ほどの笹団子づくりを学びたかったお母さんとそれを教えられる集落のお母さんたちが結びつくような形があって、お互いがwinwinというか、震災前は結びつかなかった主体が震災によってつながったところもあった。今は田舎で暮らしたい若者が増えてきて、そういう人達と高齢化した集落が繋がったりして、災害があったからこそ繋がったみたいな。福留先生も言われたように、きっかけがあるとお互いが繋がれたり、若者でも高齢化した集落に繋がったり。あとは、地元の人はそこの地域は何もないと思っているけど、若い人から見ると綺麗な自然やおいしい食べ物があって、そういった所が若者が繋がれるきっかけになったのではないかなと思う。
  • 栗田:宝探しとかやっていた。地域の街歩きとか。都会の若者からしてみたら、こんなに美しい風景があるのかと驚いて、地元の人も誇りを取り戻したりするよね。そういうきっかけづくりを仕掛けていく人たちが篠原さんなのでは?
  • 篠原:やってはいるけどなかなか職員に浸透していかないというのが課題かもしれない。
  • 栗田:そこをこじ開けていくのが清水さんのような存在かと思いますが、そのようなアイディアがどこから出てくるのか?
  • 清水:ピンチが来たらよし来たという感じでやっている。福留先生にお聞きしたいのは、山古志では錦鯉がダメになったが あれを復活させたのはおじちゃん達だったのか?
  • 福留:錦鯉って良い鯉ができるとそれなりの値段で流通されていて、だいたい高い値段で競り落とされるのは海外で、特に中国あたりが多い。山古志も10年の中で、ほぼ人口世帯数は半減している。ただ、錦鯉の養殖をしっかり生業としてされている所は帰ってきている。それが経済に繋がるので周りが帰らなくても、俺は帰ると言って生業とされている業者さんはかなりいる。やはり戻る意思を持っている人はそれでやっていくという覚悟と、それに向けてそれなりにお金が集められる。お金を投下すればそれだけ売れて戻ってくるという自信をお持ちだったので帰ってこられたのかなと。一方で、山古志はじめ中越にはたくさん錦鯉を養殖されている方がいるが、高齢の方になると海外に高く売りつけるために定款の手続きをするといった面倒なことはできない。今は残念ながら錦鯉は装置型産業というか、数千万~億近く出してビニールハウスのような施設を作るとなると、震災を契機に自分は無理だと思う人もいるし、もともと趣味的に鯉を買っていた方もいるので、その方はこれを機に辞めた方もいる。そういう意味では、震災をきっかけに、生業としてやっていく人たちと趣味の延長でやっていた人は震災後新たに投資して再開するまでではないという方もいる。後者の人たちは前者の方の下請けだったりする。
  • 清水:栗田さん、世界で一番高い鯉はいくらすると思うか?
  • 栗田:知らない。知っているのか?
  • 清水:2億3千万。ウチは先生が仰ったように覚悟と自信があるというのが、今の活動の中心。
  • 栗田:ここに原点がある。少し整理すると、中越と東日本は全然違うという前提はあるが、起きている現象は同じことが起きているということがあり、どうやって復興を成し遂げていくのかという個人の問題と、地域全体がしっかりと復興していくという地域コミュニティの問題がある。いずれにしても何かきっかけづくりをする仕掛け人がいる。その成功事例として、先ほどの笹団子の話もそうですし、若者の街歩きであったり、少しずつ田舎暮らしがブームになっている所を押さえたり。東日本大震災で当てはめると、それが出来る所と出来ない所があると思うが、福島にアドバイスをいただくとするなら福留先生はどのようなアドバイスがあるか?
  • 福留:きっかけづくり、つなぎ役という話でしたが、それが必要であろうということは、たぶんこういう集まりであったり、少し会話を重ねることでやはり必要だよねと納得される方が福島に多いのかなと思う。個人的に少し気になったのは、良い悪いは別として、福島でもずいぶん色々な財源がある。新潟中越地震がそうですし、その前身として阪神淡路大震災でも、復興基金のような地域で必要とされている所に出していく財源がありました。今回の東日本大震災でも福島をはじめ東北3県でも作られたのですが、ほとんどの人が復興基金のことを知らないという所からして、かなり課題があるのかと。阪神や新潟中越の場合は、復興基金を基にどんなことが必要であるか、被災地では何が求められているのかということをかなりニーズの汲み取りというか、被災者の方との対話を重ねる、もしくは被災された住民からこういうことが必要だとことが挙げられた。そのような声を挙げる・くみ取るような仕組みとして復興基金を作ったり、管理している県内・市内や参画団体がかなり気を配ったり、というより当時の知事から気を配るようにトップダウンで言われていた。そういうのがあったので、関わっている住民被災者の方も具体的に自分たちの声がこうなったと実感できた部分もあると思います。そこが残念ながら東北では自分たちの声が具体的にどんな形や政策に反映されたのか見えない。もしそれが見えれば、100%の満足とはいかなくても、かなり納得は出来るのかなと。突然、ある市町がこういう制度を作りましたとしても、そこを作るまでに実際に関わっている団体や被災した当事者との対話、意見を交わすような場があった方が色々な立場の方が納得できるのではないかと。
  • 栗田:やはり付焼刃的なワークショップはもういいと。こういう現場で頑張っていらっしゃる方の生の声を集約して、言われるようにきっかけづくりの創出、創出できる人を発掘していくことがそろそろ必要かもしれない。その点については清水さんも積極的にやられている先進事例だと思いますが、三浦さんいかがか?
  • 三浦:笹団子の話はすごくいいなと思った。さっそく取り入れてみたい。
  • 栗田:役割をもって色々関わってもらうことが必要。第2部では県外の広域避難の話題に触れていきたい。

トークセッション(第2部)

澤上幸子氏(NPO法人 えひめ3.11)
  • 栗田:澤上さん自身も避難者の一人で、自分のことも思い浮かべながら支援する立場でもあるので、かなり10年間頑張ってこられたかと思う。「なんでここにいるの?」と思う人の気持ちはわかるが、その気持ちを分かってくれる周りの人達は愛媛にどれくらいいるのか?
  • 澤上:マイノリティなので少ない。もう復興して人が住んでいると思っていて、今いる双葉町のような風景を愛媛の方がメディアで観るのは、3月11日前後一週間くらい。諦めてはいないが、少ない。
  • 栗田:「フォーマルの支援」と言っていたが、行政の施策もほとんど無くなって、普通に窓口に行くと、「困っているのはあなた方だけではありません」と言われてしまうと。
  • 澤上:そうですね。それは本当に実体験。ハローワークで仕事を探した時に、避難者専用窓口という張り紙はある。そこの張り紙があるから並んでも、「失業した人はいっぱいいるからあっちに並んで」と言われるのが現実。あとは、支援者として避難者の方と一緒に行政に相談しに行っても、「避難者なのですけど」と言ったら5枚くらい壁ができて。だから最後に「避難者なのですけど」と言った方が良いのかと思うが、避難者と言ったら面倒くさそうと思われているのかなと実感する。
  • 栗田:10年の月日で改善されるどころか、どんどん悪化していく感じですか。
  • 澤上:そうですね。それを風化と言うのかは分からないが、担当者が変われば、あまり引継ぎがされていなかったり。例えば、愛媛だと次なる災害として、西日本豪雨災害が起きた瞬間に「東日本大震災」について触れてはいけないのかなと思う自分もいて。西日本豪雨の被災者支援会議に出た時も、現場では同じことが起こっていて、「だからよ」と思うことはあって、やはり繰り返されていくところがあるのかなと思う。
  • 栗田:社会全体が自己責任が問われるような風潮になってきた、なかなか言い出しづらい環境になっているのではないか。私たちも愛知県で母体として活動しているが、ヤングアダルトの問題についてアンケート調査をした。やはり自分たちは選択して避難してきたわけではないので、ものすごい葛藤がある。しかし、10年経って一人一人が人生を歩んできている訳で。大きいのはその間に誰と出会ったのかということ。親友と出会えたとか、先生と出会えたとか、そういうことによって転機が訪れて、アンケートの結果でいうと約8~9割の方が、自分の目標に向かって生き生きと暮らしている。戻るかどうかについては、そもそも戻るという選択肢も無い子もいて、避難先の生活に溶け込んでいる。福島なり故郷に戻るかどうかは問われる。ここで生きていくと決めている若者もいるし、それはそれで一つの方向性だと思う。心配なのは、避難してきて何一つ良いことがなかったと断言している子どもがいたり、1~2割の子どもが不安を抱えている。澤上さんが言うように、その子達の支援はほとんどないし、我々は何してきたのかなという課題が浮き彫りになったのかなと思う。そのことも含めて、広域避難の研究では第一人者である立教大学の原田先生もお越しいただいていますので、コメントいただきたい。
  • 原田:まず、前半部分からコメントさせていただく。立教大学で復興支援プロジェクトのいわき拠点を持っていて、そこの担当をしていた。その時に薄磯の災害公営団地と双葉の方が避難されていた南台の仮設団地に学生を連れて通っていたことがあり、当時から話題になっていた避難者の人達と地元の人達との分断や、公営住宅の中でリーダーをどう育てるのかというお話は数年経った現在で深刻化しているのだと学んだ。私は埼玉で避難者支援に関わっていまして、「福玉便り」という避難者向けの情報誌を立ち上げた。避難者の方々の話を通して、浪江町や、中通りのお母さんの話を聞いていたので、前半のお話を聞いていて感じたことが2つある。1つは篠原さん、清水さん、三浦さんと拠点とする地域はそれぞれ違うが、アプローチが違っていてどれも重要だと感じた。篠原さんの場合は、どちらかというといわき市全体を見た制度やネットワークのお話をされていて、清水さんの場合は障がい者の方がいる事業所や農園など土地性や空間性というのを拠点に活動されていて、三浦さんの場合は色々な土地を超えて「ママさん」というキーワードや属性でお母さん方を繋いでいらっしゃっている。ネットワークや土地性、属性はどれも重要なのだと感じた次第ですし、それを組み合わせれば、浪江のママさんとか中通りの方々の地域をどう絡めるかなど3人のお話をクロスさせることができるかなと思った。逆にそこに抜け落ちているのは何かなと考ると、澤上さんのお話に出てきた若者の視点のような、何が抜け落ちているのかを整理することができると思う。3者3様のアプローチもそれぞれ組み合わせて、掛け算していくと色々なことが見えてくると思った。もう一つは、4名のお話に共通するのは、避難者支援と通常のいわゆる困った方への支援の境目がみえづらくなっている、あるいはどう棲み分けして、どう連携するのかますます重要になってくると感じた。篠原さん公営住宅の人づくりというのは、ある種全国的でも起きていて、団地やとりわけニュータウンでの孤立化をどう防ぐかという話に繋がるし、清水さんも、日本全国で起きる「限界集落」のある種、局所化したものが浪江町で起きているとするならば、今後全国の中山間地域で必要とされる人づくりの話に繋がってくるかと思う。三浦さんの話も、全国で孤立化しがちなお母さん、とりわけコロナ禍において母子のストレスや虐待のリスクなどが高まっている中で、いかにお母さんを助けるかという話になってくる。団地の話、限界集落の話、子育て支援の話というのは、すべて災害とか原発事故という大枠を取っ払っても議論できるような話題だと思う。他方で、震災・原発事故由来によって他の地域より難しくなってきている側面や、あるいは賠償の問題、放射能のリスクなどが掛け合わさっている中で、いかに通常の社会資源とか支援と原発事故特有の支援というのを結びつけるか、皆さんがすべての支援をやるというのは難しいので、いかに地域の社会資源と棲み分けとか連携、あるいは役割分担をしていくかというのが重要になってくる。結論は栗田さんが仰っていたネットワークに落ち着くのかなと思った。澤上さんのお話からは、他の参加者で前提をご存じない方もいるかもしれないので補足して説明すると、避難者支援とはどこの地域に避難したかによって支援のスタイルが異なる。基本的に47都道府県に各避難者を受け入れる支援団体があって、愛知だったら栗田さん、愛媛だったら澤上さん、埼玉だったら僕らの福玉のようなところがあるが、それぞれが支援のやり方が変わっていて、なぜかというと受け入れた行政や県庁がそれぞれ全然違う支援をしていて、立ち上がった支援団体の特徴とかによって、全都道府県で全部違った支援が展開されている。避難者の方にとっては、どこに避難したかによって全然違う支援がある、あるいは同じ県内でもどこの市町村に避難したかによって、きちんと避難者を見守りしてくれるところもあれば、まったくそういうのをしていない市町村もある。そういった公的支援、民間支援でもどの地域に避難したかによって支援に大きな差がある。加えて10年間が経過したことによって、避難者の方々も選択とか置かれた属性などもすごく多様になっていって、戻る方もいればとどまる方もいる。あるいはどこに避難したかとか家族構成によってニーズも変わってくる。他方で支援者も10年、年を重ねて離脱していくというか、支援は辞めてしまうような団体もある中で、今後避難者の方々をどう支えていくのか非常に大事になっていくのではないかと思う。僕らの埼玉でも避難された方々の選択肢を肯定するというのをキーワードに、最初のさいたまスーパーアリーナの支援や福玉便りをやっていた頃から色々な避難者の方がいて、すべての方の選択肢を肯定するということをやってきたが、ではそれだけでいいのかと肯定していたつもりが、そこから零れ落ちてしまう人もいて、どう支援すればいいのかと日々頭を悩ませていて、澤上さんも仰っていたフォーマル/インフォーマルの社会資源をどうつなぐのかというのは私も同感する一方、繋ぐ人がいるかどうかというのは都道府県によって異なる。やはり愛媛は澤上さんのような当事者でもあり、支援のこともよくご存じである方がいらっしゃるがゆえに、こうした社会資源の連携ができると思うが、各地でできているかと言えばそうではない。話は重なってしまうが、既存の社会資源と避難者に特化した社会資源をどうつなぐのかというのが、これから重要になってくる課題ではないか。僕らの福玉便りもどうすべきか話し合っていたが、やれることとしては福玉便りを送り続けることだよねという話になった。まずは避難者の皆さんに情報を送り続けることで何かの機会に反応してくれる方がいるかもしれないので、そういったアプローチをし続けることが必要だと思う。
  • 栗田:ありがとうございます。原田先生の立場から見て、それぞれの選択を認めようということを基本にしてやってきたけど、それだけではダメだということで、然るべきところに繋いでいくのか、最低限やっていることは続けてようとか、そういった努力が11年目以降も引き続き活動しているのか?
  • 原田:埼玉の場合ですと復興支援員が4町と福島県が一時期設置されていて、とりわけ浪江町の復興支援員さんは根気強く訪問されていたのが、今は双葉、浪江、大熊、富岡のどれも閉鎖していて、福島県の復興支援員だけ。埼玉県の場合は、福島県の復興支援員と民間団体と連携してやっていくモデルがあったので、復興支援員がだんだんと打ち切られていくなかで、そういった戸別訪問の機会が減っているというのがある。
  • 栗田:社会資源がだんだん減っているという状況。澤上さんはどうお考か?
  • 澤上:原田先生が仰る通り、避難者支援では間に合わないし、かといって生活支援だけの視点では選択肢を肯定するとか、なんでそもそも避難したのか、震災前の暮らしはどうだったのかという視点が無くなるから、どっちも必要だなと。ただ、境がわかりづらくなるから、行政とか公的なところは支援しづらい部分もあるのではないかなと思う。
  • 栗田:断りづらい立場にある篠原さんはどのように聞いていたか?
  • 篠原:すごく難しいが、避難者とかもとからいるとか分け隔てない支援が必要なのかと。災害以前の部分というところが必要なのかと。時とともに皆さんも災害があったことを忘れていく状況なので、その人の生活歴とかで災害が起因としているとすれば、それに合わせた支援が求められてくるのかなと思う。
  • 栗田:澤上さんも前回仰っていましたよね。ちゃんと人となりを理解して接していないと空振りになると。
  • 澤上:時間はかかるし、たくさん対話しないと分からないこと。けれどもその人がどんな考え方や価値観を持って暮らしているのかというところですか。
  • 栗田:繋ぐというのが大事なのはわかるが、繋いだところで繋いだ先がちゃんとしてくれるかという問題もある。場合によっては、つなぎ方も分からない人に繋ぐことが形式的になってしまうようなことは行政だと起こりうる。今起きている問題としては、課題を抱えている方のアプローチは10年関わった人でしか最初のアプローチができない。他の人が訪問しても、「あなた誰ですか」となる。10年やっている人だから電話に出てくれるとか、玄関から出てきてくれることもあるので、そういった関係性はすぐには作れないので、私としては今関わっている人が、これからも関わってやっていくしかないのかなと思う。そのための財源はどうするのかという問題はあるが。
  • 原田:専門職の方の中でも震災のことを知らない方だと、そこの支援が逆に差別的なことを言ったしまうことがあったりと、専門機関に繋げばいいというわけではない。他方で、10年前からやってきた人の中には段々と引退、資源がどんどんなくなってしまう訳で。あるいは今からでも専門職の方で3.11について学んでいく勉強会を開いたり、何かの形で新しい方をリクルートしないと、さらに次の10年を考えた時には、新しい支援の担い手をどうするのかを含めて大事なテーマになると思う。
  • 栗田:原田先生主催でやりましょう。清水さんはこれまでのお話を聞いてどう思われたか?その人の人生、どう生きるか。
  • 清水:どういう人と出会うことによって、自分の人生が良い方向に向かっていくかというのが大事なのかなと改めて感じた。私は避難した当時、利用者さんや職員であったり、職員の家族含め30名近くで避難したが、その時に職員の子どもも何人かいて、その職員の子どもは私の甥っ子、姪っ子でもあったが、子ども達に関わるときに注意したのが、避難が決して苦しいものではないことを味わってもらいたくて、炊飯ジャーがあったのでカレーを作らせたり、ホットケーキミックスがあったので、炊飯ジャーでホットケーキを作らせたり。確かに避難って大変な生活でお風呂にも入れなかったが、あの時避難して大変だったけど面白い経験できたよねと思ってもらえるような接し方をしようと気を付けた。
  • 栗田:やはり役割を作ることに尽きるの。「被災者」とするだけでなく、一緒に動こうとさせるのということか。
  • 清水:みんな上手くいっていないケースというのは、支援者側が前面に出て、支援者がやって自己満足というのが一番良くない。私も漬物とか自分で作れるのですが、決して自分は出来ると言わずに利用者さんとかに教えてもらって、「こんな美味しい漬物食べたことない」とか、「実際にそれを売ってみよう」とかして、売れるようになると利用者さん自体も来年の白菜の作付面積を増やさないといけないという気持ちになる。どうしても支援者が前面に出てしまうのは良くないと思う。
  • 栗田:最終的にはそうなりたい。
  • 澤上:役割は本当に大事だと思う。私たちが四国で個別訪問をしているが、一つの仕事として一緒に避難者の方と回ったりして、運転が上手な方に運転をお願いしたりすると、その人の役割として生き生きとして就労に結びついたり、お話を聞いていて役割は大事だなと思った。
  • 栗田:そういうことは澤上さんもやってらっしゃる。一方で、三浦さんのように聞いてあげると言えば語弊になるが、耳を傾けられる人がいて安心できる場があるというのが47都道府県にあるか。そういうところを身近に出来るといいなと思いますけど、出張ままカフェとかやらないのか?
  • 三浦:出張型やっている。すごく好評でして継続的に繋げたりしている。明日も浪江のままカフェだが、浪江・富岡は今年から継続的に訪問している。
  • 栗田:ニーズはあるのか?
  • 三浦:ある。福島のリアルタイムな情報を持っていくと、すごく喜ばれるし、澤上さんから当事者団体は昔の話ができるとも仰っていましたが、まさしく昔の話が生まれる。「高校の時にパン屋があって、あのパン屋はすごく美味しかったよね」とか。
  • 栗田:場づくり、きっかけづくり。やってらっしゃるのですが、そういう機能が今後低下していく懸念がある。お金の問題も含めて。社会のそうしたいつまでやっているのという雰囲気に負けないように発信し続けていかないといけないと思うが。そう考えると清水さんの所の畑に愛媛の避難者が応援に行くようなツアーをやってもいいのでは?
  • 澤上:ぜひお願いします。
  • 清水:ウチは儲かる農業しかしないので、そういう農的生活をしたいような方はNGで。
  • 栗田:いずれにしても場づくりなど重要なキーワードがでてきた、原田先生からご感想とかまとめをしていただきたい。
  • 原田:10年経過して難しくなっている局面があると思った。支援に関わる身としてもっと早く何か手を打っておけば良かったと思った。加えてコロナ禍で訪問や交流会など、コロナ禍以前に出来ていたことが出来なくなってきた中で、コロナが明けた後にコロナ前と同じ支援ができるかと言うと、かえってそこで途切れてしまったものや関係性があると思うので、なかなか難しくなっていく中、支援のねじを巻き直すというか、10年経過して終わりではなく、今日お話ししたネットワークと役割が必要かと。言葉にするのは簡単で、やっていくとなると地道な努力になるかと思うが、皆さん中心に色々な関係者を巻き込んでやっていくことの重要性を感じた。
  • 栗田)1部でもそうでしたが、一人ひとりという視点も出てきました。そういう視点で同ネットワークを構築していくか。篠原流に言うと、ネットワークで集めるだけでなく、議論をぶつけ合わせたり、戦わせていかないといけないこともある。そういう意味ではネットワークにプラスして、ネットワークが何でもかんでもお膳立てするのではなく、この人達一人ひとりが作っていくような関わり方が重要だと感じた。まず、第2部は以上。

各ブレイクアウトルーム共有

みんぷく鵜沼さん

鵜沼:NPO法人みんぷくの鵜沼。福島県の復興公営住宅でコミュニティ交流員という制度を使って支援活動をしている。第二部の方で出ていた震災関連の支援が必要な人なのか、平時の生活の中での支援が必要な人なのかという切り分けが段々できなくなってきて、切り分けもせずに個人個人をみて支援をするべきだという話が出ていて、最近そのような話がよく出てきているので、そういう時期になってきていると感じた。チャットの方に良くも悪くも財源があると出ていたが、財源があるということを効率よく使うためにわかりやすい資料なり説明があればいいなと思った。

あいちぼうさい伊藤さん

伊藤:私は震災後に福島に1回入っただけでそれ以降ノータッチになっていた。前回と今回の話を聞いてまだまだ課題が多いと感じた。今のところ、避難者支援の活動はしていないので、愛知県でも少しでも接してこれからの活動に繋げていけたらいいなと思う。

復興庁板村さん

板村:色々なお話を伺えてよかった。鵜沼さんから出ていたもっと財政支援が届くといいねと言ったのは私。今日色々なお話を聞かせていただいた中で、財政についてなかなか知られていない点があり、一職員ではなくて一国民として分かりにくいと思うところがあるなと感想として述べさせていただいた。ソフト面の部分は財政だけでなんとかなる訳ではないが、支援活動はどうしてもお金が必要になると思うので、そういうところが必要と話した。

あいちぼうさい伊藤さん

伊藤:私たちのブレイクアウトルームで話していたのは、すべてのことが10年経過すると風化しているのではないかということと、その中でも繋がりということが風化していることが心配だよねという話が出ていた。その中でこういった会議があって、課題が共有できたことは非常にためになった。原田先生から補足お願いします。

原田:とりわけ福島県外から福島をどう支えていくかということで、ふるさと納税であったり、福島の物を買ったりみたいな話もしていたし、福島でずっと現地で関わっている方から今後どう関わっていくか様々な意見をいただいた。最後、池座さんから重要なお話をされている途中で終わってしまったが、池座さんからは福島の問題と平時の問題は地続きで繋がっていて、逆に今のコロナ禍で平時の課題が有事の課題となっている場面で、福島に関わってきた方の知見が上がってきた中で、今後色々な場面に活かしていけるのではないかという話がでた。いままで考えたことがなかった支援や活動もできていく中で、組織の枠を超えていきながら人を繋いでいくクリエイティビティが必要なのではというお話があった。

最後の感想

  • 篠原:今後も場づくり、ネットワーク、今日集まった方達もネットワークだと思う。ただ、今日はネットワークができただけで、これから先は被災地の復興のために皆さんと協働連携しながらやっていきたい。
  • 栗田:清水さんの活動は本当に芯が通っている。台風19号も被害があった?
  • 清水:4000万円の被害。機械で3000万、花で1000万。
  • 栗田:そこからめげずに立ち直っている。
  • 三浦:安心して話せる場の重要性が改めてわかった。私にできることを丁寧に行っていきたい。NPOの良いところはフットワークが軽いことだと思うので、ニーズがあれば出張する。
  • 澤上:私たちの部屋では福島に行くこと、もう一回知ることが関わるうえで大事なのではないかという話が出た。コロナが収まれば行き来ができる世の中になればいい。私がえひめ3.11を立ち上げたばかりの時、愛媛県社協のKさんに避難者支援の相談をしたときに、「避難者なんて言わなくても、愛媛で大変な人なんでしょ?」と言われて、なんかそこから明るい未来が見えたことを思い出して、どこから来たとかも大事かもしれないが、愛媛でしんどい方、福島でしんどい方、伴奏してくれる人でどんな人に出会えるかという話も出た。良い人に出会うことが大事なのかなと思った。どういう人に出会うということが大事なのかと2回の参加を通じて感じた。
  • 栗田:双葉に帰る、今日は愛媛に帰る。双葉は本当はどういう町だった?
  • 澤上:海がきれいで、食べ物も美味しくて、空気にカロリーがあるのではないかというくらい太ってしまって、福島のせいなんですよね、ぽっちゃりしているのは。それくらい福島が大好きで、帰りたいという気持ちは持ちつつ、愛媛にいる一人なので、これからどうなるか分からないけど、福島が大好きなまま。
  • 栗田:その元気がみんなを元気にさせている。そうやって澤上さんが元気にリードされているので、広域避難の課題についても澤上さんから聞いた方が良いとみなさん言っている。
  • 福留:会場で4名の方から話題提供いただき、その後のブレイクアルトルームで話したが、そこではベトナム、ミャンマー、パキスタンといった外国の方が福島で、どういうことがあったか、今でも支援を続けているという話を聞いた。今回福島で起きたことはまだ伝えきれていないことがたくさんある。10年過ぎると伝承の大切さといった所が大きな課題であると言われてきたが、岩手・宮城でもいかに次に向けて伝えていくか。17年前の新潟中越でも、時間がたっても繋がっていること、繋がる機会を持てたことと仰る方が多い。福島の歩みも止まることはないと思うので、我々も関心を持っていきたい。私が学生の頃にお世話になった阪神の長田区で住民の一人としてまちづくりに関わったカワイさんから、復興の歩みは才覚のある行政職員、一般的には行政職員は公平であったり、個性を押し殺してやるのが行政だと言われているが、私も行政の方と関わっていると属人性が結構強いと思っている。そういう意味で才覚がある行政職員、そして良い意味で悪知恵が働く専門家や支援者、そしてしたたかに考え行動する住民の3者が絶妙な関係を築くことが今後の復興に大事なことだと仰っていた。福島でも考え行動する被災者、それに良い意味で関わることができる専門家や支援者、それをうまくくみ取って形にできる行政職員、それぞれの立場で努力することでこれからの10~20年の復興に向けていけるのではないかと思う。
  • 栗田:みんなで考えてクリエイティブにやっていく必要があるかもしれない。
  • 原田:10年経過してようやく議論できることもたくさんあった。一つは皆さんの経験が蓄積されて、実践知というか、現場の知が充実してきているので、今後色々な形で生かしていければ。もう一つは10年が経過することで相互理解が深まっている。まだ分断や一人一人の課題があるが、福島の課題として何か共有できることがあると思った。埼玉で避難者の方と関わっていても、震災後直後は自主避難、強制避難の方が同じ場で話をすることがなかなかできなかったのが、ある時期から強制避難の方も色々な打ち切りが進んで自主避難の方と同じ場で話せる局面が震災後5~6年経過したころにあったように覚えている。10年経ったことでお互い分かった気にはなってはいけないと思うが、10年が経過したことでお互いの話を聞けることもでてきたかと思う。他方で、この10年間は震災に関わっていない方からすると風化が進んだり、様々な事態が深刻化している場面もあるので、10年経ってようやく出ていた知見を改めて活かして、震災支援であったり、それ以外の支援に活かしていければと思う。
  • 栗田:福島という一つの特集を組んで2回実施したが、課題は山積しているというのが現状。10年経過して終わりではない。内容も様々で、福島だからといってまとめることは絶対無理で、それぞれの課題の中で向き合っていくことが必要。清水さんの言葉を借りると「一人ひとりがたった一度の人生を悔いなく生きる」ということを原点に置きながら、そういうことを促すようなきっかけづくりや本気の議論をするネットワークづくりが必要。それらを繋いでいく人が必要で、キーワードは一人ひとり、地域地域なのだと感じた。

閉会挨拶

山崎先生

山崎:あっという間の4時間。私がびっくりしたのは福島県に移住した人の4割の方が県外の方だったということにショックを覚えた。福島は原子力発電の問題が大きな課題だが、色々な問題を引きずっていますので、これからも私たちは関わり続けたい、学び続けたいと思っている。私は岩手県に10年間通い続けているが、コロナの問題で岩手に行くことができなくなった。そろそろ始めたいが、これからの大切な10年間だと思うので、みんなで繋がりあってまいりましょう。私は子どもの力を大事にしたい。子どもの暮らしを大切にしていきたいと思う。今日はありがとうございました。