東日本大震災支援全国ネットワーク(JCN)

現地会議

3.11の今がわかる会議 2021 テーマ1:1回目

東日本大震災は、2020年3月11日で10年を迎え、今年度で11年目を迎えます。10年という社会的な節目であった昨年度はメディア等でも東日本大震災のことが多く取り上げられる機会がありましたが、11年目以降はコロナウイルスの影響もあり、東日本大震災のことを知る機会や語られる機会が徐々に減っていくのではないかと懸念しています。

現状として、被災した沿岸部では災害公営住宅への移行や新しくまちが整備される一方で、災害公営住宅の入居率や入居者の高齢化の課題、人口流出などによる新しいまちの賑わいをどう創出するかの課題、コロナウイルスによるコミュニティの分断の課題など、これからの10年を考えたとき多くの解決すべき課題が想定されます。また、特に福島県においては、原発事故を起因とする県内での暮らしの課題、今なお、多くの方が県外避難を与儀なくされ、大変な思いをしながら生活をされている現状など、多くの課題が残されています。

こうした現状を踏まえて、当団体では、「孤立防止と地域のコミュニティ形成」と「10年経過した今、福島県の暮らしの現状と課題」という2つの主要テーマを据えて、「3.11の今がわかる会議」を開催し、登壇者のみなさまと全国のみなさまとともに議論いたしました。

開催概要

タイトル 3.11の今がわかる会議 2021
テーマ 「10年経過した今、福島の暮らしの現状と課題とは」1回目
日時 2021年11月13日(土)13:00-16:30
会場 オンライン(Zoom)(双葉町産業交流センター・FUTABA POINTより配信)
主催 東日本大震災支援全国ネットワーク(JCN)
助成 復興庁コーディネート事業
後援 特定非営利活動法人いわて連携復興センター
一般社団法人みやぎ連携復興センター
一般社団法人ふくしま連携復興センター
一般社団法みちのく復興・地域デザインセンター
参加者数 60名(一般46、登壇5、来賓2、スタッフ7)

プログラム

開会

◎来賓挨拶:中山 理 氏(復興庁 参事官)

東日本大震災から10年。復興は進んでいるが、引き続き取り組む必要のある課題を抱えている。コロナ禍もあり、現地に行くことができていない状況もある。冒頭の福島の映像なども拝見し、現状を直接知る大切さを感じている。被災地への支援、理解を深めていくために、みなさんといいディスカッションをできたらと思う。

◎主催者挨拶:栗田暢之(東日本大震災支援全国ネットワーク 代表世話人)

苦悩に満ちた10年を本当にいろんな方が助け合って乗り越えてきた。福島は自然災害だけでなく、原発事故によって今も翻弄され、苦しんでいる。JCNとして11年目以降も場づくりを大切にしたいと考えた。私達に何ができるのか、被災した方の声、支援する人の声をしっかり聞く。福島は様々な分断が指摘されている。それを紡ぎ直す必要がある。互いに認め合い、乗り越えていくには、一緒に話し合っていくことが大切。被災した方の今なお続く、不安、怒り、悲しみ、喜びを含めて、関わり続け、この問題をしっかりと考えていきたい。

基調講演

テーマ:10年経過した今、福島の暮らしの現状と課題とは
講演:藍原寛子 氏(Japan Perspective News代表/ジャーナリスト)

ふくしま連携復興センターの、「FUKUSHIMAの10年」編集委員会に参画し、県内50の市民団体の活動をまとめた内容を元に、活動から見えた課題や人々の声を含めて、地元ジャーナリストから視点でご報告いただいた。(※詳細は登壇資料を参照)

震災から10年、日常化している部分としていない部分、様々な発信を踏まえると、未だに終わらない被災、終わりの見えない長期化する支援であることを感じる。これ以上の支援ができない手詰まり感や、10年を区切りに支援から遠ざかった仲間、福島の震災や被害の状況の伝わりにくさなど、目指すべき方向を見失っている声もある。

被災を経験した世代の高齢化。経験していない若者が増えていく中で、震災の記憶をどう伝えていくのか。震災が自分や地域にとって何だったのか、改めて考える時期にきている。

前例のない中で活動し、活動を振り返ることもできないままに10年が経過した団体も多く、記録にも残りにくい。団体間、市民間の共有がないこともわかった。何を残し、何を伝え、何をしたのか、その過程を共有することが大切である。

東日本大震災で福島の土地の一部は人が住めなくなった。そのことさえ日本人の共通認識になっていない。被災者という不条理を抱えても、それを埋め合わせるものがない。被災者や避難者が埋もれていってしまっている。だからこそ、きちんと共有していくことが大切である。

今問われていることは、福島でおきたことをいかに私たちの物語にしていくか。被災者と支援者の協働のかたちを知ることが、人間を中心に据えた復興のかたちと言える。

質疑・感想

渡辺さん@香川へおいでプロジェクト

香川で保養で受け入れなどを行う。香川の人達が福島とつながるきっかけにもなればと活動している。活動報告ニュースを送っているが、ある人から「遠くにいても福島のことを考えてくれていることがうれしい」と言われた。10年はあっという間、コロナ禍で活動はできないが、問題は終わっていないので活動は続けたいし、いろんな団体とつながっていくことが力になる。

刈米照子さん@NPO法人ウィメンズスペースふくしま

電話相談を復興庁の予算で行っている。原発事故で家を取り壊したり、コロナ禍で子どもにも会えないと苦しんでいる人がいる。心の復興はまだまだ。私達自身も被災して、10年経っても回復できない。他の被災者もみんな同じではないか。

事例報告:福島のそれぞれの暮らしの現状と課題

◎篠原洋貴 氏(災害支援ネットワークIwaki 副会長)
◎三浦恵美里 氏(NPO法人 ビーンズふくしま ふくしま母子サポートネット事業長)
◎清水裕香里 氏(NPO法人 JIN 代表)
◎澤上幸子 氏(NPO法人 えひめ311 事務局長)
◎コーディネーター:北村育美(東日本大震災支援全国ネットワーク 福島担当)

事例報告: 篠原 氏・災害支援ネットワークIwaki

いわき市では世帯分離が進み、高齢者数、世帯数が増えている。市外避難者がいる一方、双葉8町村を中心に避難者の受入れが続いている。市内の災害公営住宅は2種類。災害公営住宅はいわき市民対象。復興公営住宅は原子力災害の避難指示を受けた地域の方が入居している。

災害公営住宅では今年4月からすべての住宅で入居対象を被災者以外にも拡大。早くから募集した住宅や沿岸部の住宅では、地域住民との顔の見える関係の希薄化、一体感の薄れ。自治会役員の担い手不足、管理費の未払いの増加等がある。

災害公営住宅での交流会の課題。定着化による参加しづらさ。自治会運営の団地間格差。外部支援の減少がある。復興公営住宅は当初社協での関わりはなかったが、双葉郡の人と地域の人で畑をやったり、交流活動が少しづつ始まっている。

この10年で、避難者と被災者の壁は低くなってきているが、まだ深い溝がある。避難者であることを隠して生活、地域住民に知られたくない。避難元の自治体、支援者にお世話になりたい気持ちがある。

地域関係なく交流することを始めている。社協間の連携、縦割りでない支援、支援者間での温度差を解消するために小名浜会議を開催し、社協間の連携を始めようとしている。中間支援組織がない中で、災害支援ネットワークIwakiを立上げた。東日本大震災での反省含め、ゆくゆくは中間支援組織になっていければと思う。

ディスカッション

  • 北村:いわき市は市民の被災と双葉郡からの避難者が多い。どちらも支援しないといけない難しさあったと思う。どこに難しさを感じる?
  • 篠原:当時はまず市民を優先していた。避難者は避難元で対応する。社協とそれぞれの避難元と連携を図りながら支援していきたかったが、10年経ってもうまく行っていない状況。
  • 北村:復興公営住宅は1つの団地に様々な地域から避難してきている。その支援も、避難元の自治体ごとに支援する感じ?
  • 篠原:避難元の自治体が支援する形。それが今隣の方も見守ろうという動きが出てきている。外部と連携もして、地域づくりをやっていきたいという状況。
  • 北村:避難元とか自治体を越えて少しずつ社協間の連携も進んでいる?
  • 篠原:そういう方向にしていきたい。地域共生の考え。
  • 北村:公営住宅は名簿の共有があると思うが、市内に家を建てた人の見守り支援はどうしている?
  • 篠原:社協では自治会中心に地域ささえあいをしている。そこに結び付けていきたい。
  • 北村:先ほどの畑は被災者市民一緒にということ?
  • 篠原:一緒にやって行ければいいが、まだそこまでいっていない。
  • 北村:そういう部分もいわきの災害支援ネットワークで担っていく?
  • 篠原:ゆくゆくは担っていきたい。
事例報告:清水 氏・JIN

震災前は通所介護をやっていた。震災により事業所を移動、福島市、二本松市、本宮市でサポートセンターをやっていた。H29年3月に浪江町が区域再編で解除。事務所を浪江町に戻して活動している。

H25年4月から一時帰宅の許可をとり、自分たちで除染して、農業に取り組んだ。野菜出荷はモニタリングで100ベクレルの値が出て諦めた。福島県がトルコギキョウとリンドウを推奨していた。国の補助金もあり、トルコギキョウの栽培を始めた。

当時はごはん食べるところも買い物するところもなかったが、今はこども園、浪江町創成小中学校、コンビニや道の駅、イオンも出店。多くのお店が開店し、欲を言わなければ困らない。

若い人、専門職がいないのが課題。10年経って、今戻っていない人は戻ってこない。子どもがいる方は中通りにいる方が便利。私自身は戻らない理由がなかった。建物も残っていて、それを利用して会社を再建した。

今は福祉と農業の2本柱。福祉は昨年から地域密着型デイサービスはじめた。毎日17名くらい来ないと経営できないので、今は週2回の受入れで、平均10名が来ている。

かずえちゃんは生活支援が必要で、南相馬市のサラダ農園で就労支援をやっていた。サラダ農園を閉じる際、他の事業所に行きたくないということで、デイサービスの補助に来てみることに。今は生き生きとしている。障がい者だからという枠でなく、一人ひとりに役割がある。その役割を大切に伸ばしてあげようとしている。

浪江に移住して花を植えたいといっている方の相談にものっている。浪江町では7軒の花農家があるが、今後10軒、11軒の花農家ができると思う。儲かる花農家というキーワードに、若い人が農業やってくれるような魅力ある花農業の話をしている。

ディスカッション

  • 北村:浪江町は、避難指示が一部続いているが、賑わいが戻ってきている印象。清水さん達がいち早く戻って、農業始めた点は浪江町の復興で重要だと思う。震災前からデイサービスやっていたが、そのデイサービスの利用者は?
  • 清水:戻ってきていない。亡くなったり、入所したり。当時80前後なので、+10だと高齢。今来ているのは全員新規の方。
  • 北村:通っている人は1日10名。その方はどういった方たちか?
  • 清水:脳梗塞の後遺症があったり、いろんな事情があるが、浪江町で最期迎えたい人が多い。その人のために何をするかというのと誇りの回復。残っている機能を最大限に生かして活動している。職員からありがとうと言うようにしている。
  • 北村:利用者が主体的にできることやっていく。そういう意味ではかずえちゃんも一緒?
  • 清水:障害を持っている人に対して、表面上では馬鹿にしていないけど、自分たちは馬鹿にしている人は見抜けるという。避難者だから、かわいそうだからやってあげるっていうのが良くない。いつまでも避難者じゃいけない。いい加減にしてよと思う。
  • 北村:トルコギキョウは栽培の範囲も広げていくといっていたが、今後どう展開していく?
  • 清水:浪江町で一億円を目指して、産地化を目指している。トルコギキョウは浪江だよねってしたい。浪江のトルコギキョウは花持ちもいいってなっているが、大量に注文きたときに受入れできない。対応できるように、他の花農業と連携して、みんな同じクオリティで販売したい。
事例報告:三浦 氏・ビーンズふくしま

帰還しても悩みを話せる場がほしいという声から、震災2年目にママカフェをスタート。H25年5月の避難者数は15万人、うち子どもが2.9万人。震災から2年間は転出が多く、3年目4月に転入が増加。ニーズにあった時期に開設できた。開設時の課題は分断された時間、帰還後の不安解消、地域住民との関係回復。

ママカフェで大切にしていること。母親同士のおしゃべりの時間。子どもとはなれる時間。くつろぐ時間の提供。他愛のない話から不安や悩みが出てくる。悩みや困りごとはあるあるごと。一人だけのことではない。グループで解決している。

写真の紹介。南相馬、福島、いわき、県南、双葉郡での活動、今年は浪江でもはじめた。少しずつ子育て世代が増えてきた。

母親の気持ちが回復した実例。帰還したが放射線の不安があった。ままカフェへ参加し、食事の放射線測定で不安が安心へかわった。提供したお菓子が評判となり、福島で過ごす自信になった。マルシェ出店など、地元への定着みられる。

避難生活の経験もとに支援活動。避難先で体調崩し不本意で帰還したが、家族で暮らすことが回復につながった。ままカフェに参加することで、自分と同じ不安抱える人の役に立ちたいと支援活動に加わり、現在は子どもにかかわる活動をしている。

コロナから孤立傾向の母親が増加、うつやネグレクト傾向の母親の参加が見られるように。まだまだフクシマのレッテル貼られていると感じる。福島に転勤になり、親に反対された。10年経っても福島のイメージは払拭できない。福島で子育てをしていくことに不安に思う人とともに過ごし支えていきたい。

ディスカッション

  • 北村:震災直後からママたちの活動を展開され、丁寧に話を聞いている。避難先から戻ると支援は終わりということではないこともわかった。コミュニティに戻る不安や放射線の不安、戻ってきてからの支援も必要。ママカフェの場で辛さ話すのが大事だった。
  • 三浦:みんなで話すことが大切。共感したり、一緒に考える。私だけじゃなく、地域に一緒に考えてくれる人がいることが、地域で生きていくには大切なことだと感じた。
  • 北村:グループで解決していくっていう。一人ではない、みんなもそういう状況だし、それぞれの会話で安心を得られる。
  • 三浦:情報量も、1対1よりも倍増する。
  • 北村:声の変化はどういうところで感じるか。
  • 三浦:震災すぐは放射能に対する不安多かったが、子どもの成長とともに、検査体制も整ってきたので、自分たちで調べることで安心したり、暮らしていくうちに大丈夫になった人もいる。
  • 北村:継続的にママカフェをやってきて、続けてきた意味、大事に思う事は?
  • 三浦:私たち側からすると、必ず行くということ。雨の日も風の日もそこを開けていることが大事。今回行けなくても次は行くとか。毎月1回あるとママ達にも安心感がある。
事例報告:澤上 氏・えひめ311
  • 北村:双葉町はまだ誰も住めない地域。澤上さん自身が双葉町にお住まいだった。双葉町、久しぶりですか?
  • 澤上:コロナがあったので2年ぶり。レンタカーを借りてきた。まだまわれていないが、もっと見て帰りたいと思う。町どころか6号線から見える景色もすっかり変わっている。

結婚を機に双葉町に住んで10年、愛媛に避難して10年。決断の連続だった。住む地域どうするか、その前に避難するという決断からはじまる。これでよかったのか、自問自答のくり返し。想像以上に大変で先が見えない。いつまで避難者というかも自問自答。

私のことでいうと、震災当時3歳の双子の男の子がいて、今は中学校2年生。一体自分はと考えると時が止まっている感じ。子供の成長で10年経ったんだと思う。

大人も子供も悩み抱え、いろんな思いで生活している。大人はママカフェや交流会で口に出しているかもしれないが、子ども達に話す場所があったのかなと思う。疲れ果てた親、しんどそうな親に自分の気持ち伝えられていたのかなと思うと、気持ちに蓋を閉じていた子がいるのではと感じる。当時小中学生の子が20歳になっている。若い子たちの言葉や思いに耳を傾けることが大人や社会の役割だと思う。

えひめ311年間通じての活動。春はお花見、夏は盆踊り、この盆踊りは今できない。コロナもあり、支援してくれる人も少なくなってきた。またいつか復活したい。秋には新米を届けて、冬は311で追悼式。避難者と会う機会つくっている。

相談窓口も開いている。窓口を開いているだけではだめで、出口まで伴走して支えていこうと決めている。専門家につないだり、一緒に通院したりする。

新米もって訪問するおせったい訪問は2012年からやっている。長く継続していることで、もうすぐあの人たちが来るんじゃないと思われたり、少し遅いと「今年は来ないの?」という感じになる。つながりあう、継続的な見守りとエンパワーメントを意識している。いつもは忘れていたとしても、いざというときに思い出してくれる存在でありたい。

ディスカッション

  • 北村:今、愛媛に避難している方はどのくらいいる?
  • 澤上:復興庁が発表しているのは70人だが、私の手元では70人を超えている。数がなぜ違うのか聞きに行ったが、いろいろ理由もあって、理解はしていないが退室した。個人情報のない中で、テレビや新聞に出たり、市役所の住民票を出すところにチラシ置いてみたり、活動の中で集めた情報の方があっていると思う。50世帯以上いるので100名以上いると思う。
  • 北村:避難者の名簿はもらえるのか、それとも足で稼いで把握しているのか?
  • 澤上:初めはもらえなかった。当事者が当事者を支えたいと思って集まったが、対象者は見えない。見えないまま集めた。何年か経って、福島の委託事業受けたときに名簿をもらったが、数年前のもので名簿に私がいなかった。
  • 北村:10年が経って、避難している方の変化は感じるか。
  • 澤上:今は生活や仕事、住まいはほぼ安定してきた。が、コロナでまた不安定になってきてしまっている。避難先で不安定でしんどいときに福島に帰省して、また頑張るという人たちが帰省もできない。避難先でまたコロナという災害にあった感じ。
  • 北村:生活が安定した中、コロナで揺さぶられる。交流もできない。
  • 澤上:オンラインで話すことはできるが、人の温かみも大事。リアルで交流できる日常に戻れるといいなと思う。
  • 北村:福島に戻ると元気になる?
  • 澤上:元気になる。私はふるさとは愛媛だけど、大好きな町だし、ここで生きていこうと決めていたし、元気になる。充電される。
  • 北村:それができないコロナ禍は、県外に避難しているみなさん辛さがあったんですね。
  • 澤上:そうなんです。けど、辛いと言うと帰ったらいいじゃないというところにつながってしまいそうで、口に出せないみたいなところもある。
  • 北村:最後に藍原さんからコメントをいただきたい。
  • 藍原:篠原さんの公営住宅の様子。長期化する様な災害の時、住まいと仕事のバックアップはセットで、ばらばらにならない支援や政策が必要。災害や紛争が起きると、都市に避難者が増える。そこが圧縮されると、仕事も住まいもなくなる。福島県だと、福島市、郡山市、いわき市、県内の中核的な市にきていることが、いわきの事例でわかる。

    清水さんは、一番大変な市民団体のひとつ。放射能の影響に翻弄され、どうしたらいいかというところから、新しくトルコギキョウ、次に進むステップ、秘訣は聞いてみたいのと、人権や尊厳に注目され、職員と利用者がパートナーシップの中で、目指されたのが新しく、すごいことだった。

    ママカフェは、戻ってこられても、先のコミュニティが前と違ってきているのを地域外の人はわからない。まったく新しい人間関係やコミュニティをつくらなければならないという場づくりを工夫されている。これからも求められるもので、他の災害地も同じではないかと思う。

    えひめ311のお話しで、ただ受け止めてくれたらいいのに、なぜそこに批評が付いてしまうのか、わかった振りをしてしまう世界があるのではないか。辛いところはありつつも、お互いに理解する努力がいる。おせったい訪問が行事化しているのはすごいこと、生活の中に入り込んでいる活動を展開しているのは素晴らしいことだと思う。勇気づけられる活動だった。

バズセッション

・グループに分かれて、参加者同士の意見交換(15分)
・グループでの話し合い後の全体共有

関口さん@シーズ

コロナで現地に行けない。情報を伝える上でも、気持ちの上でももどかしい。基調講演での映画館の話はグループでも議論があった。当時、福島差別があったが、コロナ禍でも各地でそれが起こった。そのところではコロナも都市型災害。震災直後福島に対してそういうことした人がいた。それを繰り返してはいけない。福島ではコロナ差別少なかったと聞き、震災に直接のリカバリーも大事だが、日本社会の文化がもう少し成熟していく必要ある。

樋口さん@ふくしま連携復興センター

藍原さんには「FUKUSHIMAの10年」に関わってもらった。あがってきた原稿読むと長い文章で思いぶつけてきていた。ページオーバーするところを削ってもらいあの状態になった。市民活動団体が思いをもって活動していたの知って感動した。藍原さんがその話に触れていてありがたく思った。

中山参事官

登壇者の生の話を聞けて勉強になった。篠原さんの話を聞き、このままだと、次の災害が起きた時にも同じ問題が起きてしまうと感じた。個人情報の共有など、プライバシーの問題もあるが、どう解決すればいいか、みなさんの知恵を借りながら、行政としてできることはないか検討していきたい。

フェルナンドさん@SJW NGO

震災時は東京にいた。当時、外国人ボランティアは受け入れていなかった。2013年に日本国籍をとった。2015年にいわきに来て、外国人支援と子ども支援をしている。日本語出来ない外国人、子どものケアはまだ不十分。私もフリースクールで英語教えていて、子どもを連れたお母さんがきらきらした目で帰る。今日の話は全部感動した。

登壇者よりひと言

篠原 氏・災害支援ネットワークIwaki

バズセッションでは現状を話した。課題が沢山ある。ここに参加された方が、またいわきを支援してくれる方々だと思う。いろんな人の力を借りながら、これからの10年を考え、やっていきたい。

清水 氏・JIN

10年沢山のことあった。南海トラフや首都直下地震が起きたとき、同じように悩む方がいると思う。個人情報を出していいか悪いか選択し、いざという時に適切に使われるような制度は早めに作った方がいい。私も80代の両親と浪江で暮らしている。経験のない社協の人に父が関わられた。福祉のスキル有り無しではなく、人間としての関わり方ができない人が関わると、困っている人もそこから抜け出せない。関わる人も勉強して関わるべきと思う。

三浦 氏・ビーンズふくしま

ままカフェの取り組みを知ってもらい有難かった。知ってもらうことが第一歩と考えている。震災後からそれぞれの立場で活躍する方々の話聞けて、力をいただき、明日からまた頑張ろうと思った。様々な状況や考え方があるが、互いを認め合いながら、福島で生きていけるように継続して取り組んでいきたい。

澤上 氏・えひめ311

こういう場で話せていい機会になった。本当に、朝起きるとなんで愛媛にいるんだろうと思う日もあるが、そういう人もいるんだよってことを、良い悪いではなく、知ってもらえるように発信していきたいし、震災ってなんなんだろうと、答えはでないが考え続けることが大事だなと思った。

藍原 氏・ジャーナリスト

素晴らしい場を設定してもらってありがとう。勉強になり、感動もした。10年はまだまだ入口という感じと同時に、みなさんがいろんな課題問題を発見して、いい方向に向かうように工夫しながら取り組んでこられた。そのことこそが世界に誇れる出来事。これからまだ先長いが互いに自分を大事にしながら、いろんな方と協働していけたらと思う。

閉会

閉会挨拶:山崎美貴子(東日本大震災支援全国ネットワーク 代表世話人)

忘れないと生活できない。目に見える被害よりも大変に思うことがある。10年前はじめて現地に入った。相馬の松浦港というところで頑張っていた南相馬の方が命を落とした。それ以来お母さんは生活が止まったままになり、お墓にお祈りに行くだけの日々になった。時間止まったまま、そういう方々は沢山いる。

帰還者、その家族の方は、忘れないと生活できないこともあるんだよねと仰る。いろんな歩き方があるが、悩みを抱えたまま、きついなと思いながら時間を過ごしている。そこを思い出さないようにしている人もいる。避難先で支援を受ける中、いろんな営みをはじめる方がいる一方で、体調を崩して不安が続いている人もいる。毎日毎日、その日の生活はいろんな形がある。その淡々とした暮らしの中で、なによりも大切に、生きていこうとすることを忘れないでその繰り返しを積み重ねていきたいと思う。

最近新米がはじまり、福島からお米をいただく。みんなで分かち合って、そんなことの積み重ねから、新しい日常が生まれてきているかもしれない。いま、松浦港の辺りに美しい海辺が見えてきている。ときどきそこを歩いて、海辺の所に何日間か過ごすことがある。そういうこと重ねながら、私たちが出来ることを大切に積み上げていけたらいいなと思う。福島のみなさんと小さな集いを重ねながら、それを大切に積み重ねていきたいと思う。ようやくこういう場ができて嬉しい。またお会いしましょう。