現地会議
第8回 現地会議 in 宮城
登壇者の主な発言 資料等 開催概要
登壇者の主な発言
【情報提供】
高橋伸明 氏(岩沼市 建設部 復興整備課)
岩沼市の地域性と被災状況ですが、岩沼市は昭和30年に千貫村・岩沼町・玉浦村合併して新生の岩沼町になり、昭和46年に市制施行しました。市域の48%で181人が市内で亡くなっています。48%といいますが、ここで見てわかるように旧玉浦村が全てです。ですから今回の岩沼市の復興というのは玉浦地区の再生であるということが大きなテーマでもあります。
特に被害が大きい沿岸地区においてですが、地区の合意を踏まえ、相野釜、藤曽根、二野倉、長谷釜、蒲崎及び新浜地区と6集落がすべての地区の住民の合意で最終的には玉浦の西の地区に1箇所に集団移転をするということになっています。被災した6地区の女性や若者各3名ずつと、学識経験者、付近の方など23名を委員としてまちづくり検討委員会を立ち上げました。平成24年6月に組織して、昨年からは28回を超える会議を行い、移転する住民が主体となってまちづくりを進めているところです。どこの地区で誰がどこに、といったものから生け垣はどうするか、町内はどうするか、集会所の運営管理、公園・・・など話し合ってきて今週月曜日に市長まで最終答申を行ったところです。すでに3月に家を建てた方もいます。岩沼市の集団移転はコミュニティ、スピード感、住民主体で取り組んでいます。
丸山正 氏(復興庁 宮城復興局)
資料を同封しました。これは支援活動をされているNPOや公益法人の方々が活用可能な財政支援にどういうものがあるかということで、その可能性があるものを前広に各省からの事業を紹介して貰う形で復興庁が取りまとめまして、平成23年度から作成しているものです。今回お配りしたのは平成26年度の概算要求で上がっているものです。今後予算編成の過程の中で事業自体が不採択になったり、金額が減額になったりするものもあり得るという前提でご覧を頂きたいと思います。
今回のテーマ「仮設後のコミュニティ形成を考える」ということでございます。特にコミュニティ形成や見守り体制づくりに関係する事業について絞ってお話をいたします。復興庁で行いました、「新しい東北先導モデル」事業についてです。新しい東北については単に昔と同じように災害復旧するのではなくて、今回の復興を景気に日本の抱えている課題、被災地の抱える課題を併せて同時に解決していく取り組みをすすめていって可能性の地としての新しい東北を作っていくのだと、いうことを昨年の12月に政府全体の基本方針として閣議決定をしているところでございます。
その「新しい東北」を具体化していくのがこの先導モデル事業でして、テーマは大きく5本、子どもの成長・高齢社会・エネルギー・社会基盤・地域資源の活用を図っていく・・・というのが大きな柱でありまして、今年の8月に事業の募集をいたしました。受付総数で464件、内容は圧倒的に地域資源の活用のテーマが多かったのですが464件のうち66件しか今年度につきましては採択することができませんでした。予算は今年度10億円、来年度は概算で15億円の要求をしまして件数も来年度は100件程度に増やして実施をしていく予定にしております。
【テーマ1】「知る」-被災地域での取り組み事例から-
中川勝義 氏(玉浦西地区まちづくり検討委員/岩沼市相野釜町内会)
相野釜地区というのはここからずっと東のほうで、仙台空港がありますが、そこの東側になります。海に最も近いところになります。そこの集落、世帯数が約110、人口が340くらいです。平成23年3月11日、とてつもない地震と大きな津波がきまして、集落は全滅しました。残念ながら犠牲者は43名になりました。52人で避難所生活をしまして、4月30日に第一団が仮設に入り、遅い人でも5月2日で、全員が入りました。そんなこんなでまず被災した地域は全く住める状態ではなく、防災危険区域に指定されましたのでどこかへ行かなくてはいけないと思っていたのですが、いち早く市から「集団移転するにはどこがいいか」と問われましたので、皆さんにアンケートをとることにしました。
その年の6月か7月にアンケートをとりまして。私どもの集落は農業に従事した人が多く被災しないでいればそこでずっと農業を営んでいたと思うのですが、それもできなくなって住むところも求めなくてはいけなくなりました。やはり元住んでいたところからあまり離れていなくて、玉浦村内で暮らせたらいいなあという希望があり、海岸から3キロ内陸に入ったところを希望しまして、集落ごとに集計して一番多いところを主に報告してそこでやってもらうことに決めました。いま造成がだいぶ進んでいますが、それがその場所になります。
まちを今後作るためにはどうするかですがこの地域のまちづくり検討委員会というのを立ち上げていただきまして、私ども6地域から3名ずつ出て、この周辺に3つの集落が有りますのでそこから1名ずつ出ていただきまして、都合21名でした。かなりの回数意見を交換して、どんな町にするか道路をどういうふうにつくるか、緑をどういうふうにつくるか、この地域にイグネという家の周りに木を植えて暴風をするのですがみんなでお話しました。それを市でまとめて頂いて、計画になりました。
須藤美代子 氏(社会福祉法人 南三陸町社会福祉協議会 被災者生活支援センター)
支援センターが設立されたのが平成23年7月19日で本格稼働したのが8月です。緊急雇用創出事業という大きなお金で町民を多く利用して被災者の支援に当たることにしました。約人口の3分の1に登る6,000人弱の人が狭い仮設住宅での生活を余儀なくされています。本部であるセンターと9地区単位に町内4箇所と町外2箇所にサテライト支援センターというものを設けて支援員の拠点として活動をしています。現在は行政の機能や事業所や施設の機能も取り戻していますし、私たちの仕事もだいぶ整理され、今年度はサテライトセンターを2箇所集約して町内に4箇所、町外に1箇所としています。支援員は現在78名です。多い時は去年ですが130名の生活支援員が活動しています。仮設住宅は町内外合わせて58箇所あります。そこで見守り・コミュニティづくりのサポートをしています。
生活支援員の最大の役割は見守り支援です。住民の不安や相談を一人ひとり丁寧に傾聴しながら住民の人に寄り添うことを心がけています。わたしたちは自分たちの町を自分たちでつくるということを意識して活動しています。生活支援員のほとんどが被災しております。その中でも約5割の方が仮設住宅に住みながら、同じ仮設住宅の人の見守りをしているわけです。特に多い年齢層は40歳代の女性です。この多くの町民を被災者支援に据えたのは生活のプロである主婦の目線がこれからのコミュニティづくりに強い戦力になると思ったからです。ちょっとした知識と方向性を示せばこの支援員さんたちが大きなまちの財産となるからです。
山口里美 氏(一般社団法人 RCF復興支援チーム)
釜援隊は正式名称を「釜石リージョナルコーディネーター」といいます。リージョナル=地域の、コーディネーター=調整役、です。俗にいう中間支援というかたちになるのでしょうか住民、地域団体、行政の間に入って調整役を行う人たち、今現在14名います。一番若いかたで23歳、一番上の方で50歳とかなり多様なバックグラウンドを持っている方がお集まり頂いております。
釜援隊の活動イメージですが、中間支援と申しましたように、間をつなぐ役として市外からのリソース、企業のプロジェクトや他地域の事例やNPOの助成金を地域にもってきたり、一方で住民の方や団体の方々それぞれに一人ずつ入って地域のニーズをちゃんと掘り起こしたりということもしています。また釜石市独自の復興支援員制度という形をとっていますので釜石市側のニーズを汲み取るのが大事かと思いまして、復興推進本部の事務局と連携をとりまして地域でどういうことが起こっているかを市側に伝える翻訳者というか伝達する係を担っています。
内と内、内と外をつなぐことを心がけています。外からなにか持ってくるのも勿論ですが、先ほどの14名のうち12名が外からいらっしゃっています。いわゆるよそ者です。よそ者の良さというのは地域の目線に立つこともしなくてはいけないのですがちょっと引いた目で見ることができるということで、住民同士の複雑な関係に巻き込まれにくいというか、あるときにはそれを知らないふりをして、仲が悪い人を一緒のテーブルに呼ぶなど、地域の人をつなげてくことを考えると内と内をつなぐことが大事だと思っています。よそ者だから気づくことは、企業ボランティアさんがホタテの稚貝の仕分けをやっているときにかわいいからと写メを撮ったりするのを地元に人たちが楽しがったりすることなど、外の人から見た時に釜石の良さを伝えていくことが大事だと思っています。
【テーマ2】「学ぶ」-移転後に出てくる課題-
星野晃男 氏(NPO法人 くらしサポート越後川口)
まず川口地域の概要です。川口は平成22年3月に長岡市に最後に合併した町です。だいたいこんな感じで、川口はわずか4,900人の人口の小さな町です。山間に集落が点在して、それらが集まって町域を形成していましたが、中越地震では震度7の激震を受けまして人口が本当に大幅に世帯数とともに激減をしました。それほど地震の影響は大きかったわけです。集団移転をした小高地区の事例をご紹介するのですが、小高地区は町の中心部から南に5キロ位入ったところで、一番行き止まりの集落であったわけです。ただしこの集落は不思議と嫁不足にはならず、三世代同居の多い、集落行事に子どもからお年寄りまですべて参加するという団結力の強い集落でした。この集落が集団移転を決意したわけです。
川の上流に出た土砂ダムの影響で決壊のおそれがあるということで避難指示がでまして2キロ離れた田麦山小学校に全戸が避難しました。この小高集落が集団移転を町に申し入れたのが約1か月後のことでした。翌年1月から住民の意向の調査をしながら、最終的に移転の規模が移転19世帯、5世帯が個別移転ということで19世帯のうち4世帯が公営住宅を希望しました。自力再建のうち、1世帯が移転のゴタゴタのなかで、経済的な理由などもあって移転を断念しました。かくして工事に入りまして平成19年3月までに事業が完了しました。
移転後に訪れた苦難ですが、これから小高の取り組みが始まるわけですが元々移転の目的は、移転をするのであれば小高が持っていたそれぞれのコミュニティを維持発展させることでしたが、移転の経過で複雑な感情が住民の間に入り混じってしまって、個別移転も有りましたので、さらに移転の世帯数が減ってしまったなどで、コミュニティの維持継承に危機が訪れてしまったわけです。私は地域振興の担当課でもあったので本来であれば集団移転事業が終わるととりあえずは終わりということだったのですが、こういう状況だったのでとにかくコミュニティが移転しなかったわけですからこれを何とか住民のちからで取り戻すための支援が必要であったわけです。移転地に行ってゼロからプラスをするのではなくて、一旦マイナスになってしまったのをゼロに戻してプラスに転じていく作業をしなければならなかったのですね。
黒田裕子 氏(NPO法人 阪神高齢者・障害者支援ネットワーク)
今気仙沼で24時間365日体制の支援活動をさせて頂いていますが、そこの中で守っていかなくてはいけないのは自立と共生です。これも須藤さんがおっしゃっていました「自立」というキーワードです。何でもかんでもしてあげることがいいとは限らないのです。個々で向き合った時に何がその方にとって必要なのかということです。私が阪神・淡路大震災のときに仮設住宅の中で虐待がありましたので、グループハウスをつくりたいということを申しました。これが日本で始めてのグループハウスでした。こういう中で地域包括を展開してきたということです。
場作りがコミュニティづくりにもなるし、人づくりにもなるのですね。そういう中でピア・サポートが一番大事です。私たちも復興住宅の中で歩いて行っていたのですが、1年間だれも出て行かなかったという人がいました。1年間出てこなくても私たちは中の声をきき入れることをしていましたら、ある日出てこられた。お風呂場がゴミ箱、お家がゴミ箱になっているのですね。開けにくいのです。そこで私たちはどう関わっていくかということですね。「寄り添える」というのは相手の気持の中にどれだけ我々の中に支援する者が解かろうとする気持ちがあるかどうか、これが真の寄り添いですね。
生きがい型のデイサービスをぜひこちらでもされたほうがいいと思いますが、介護保険を受けていない人でやっています。ネットワークです。ネットワークというのは誰とつなげればいいのかということです。ただネットワークひとくくりではなくてこの事例に対して誰とつなげれば、この人は本当の人間として生き切ることができるかどうかということですね。我々はお金をどこからももらっていなかったというのは、産官学民の連携をとっているからです。問題解決は現場にしかないということです。
資料等
開催概要
タイトル | 仮設後のコミュニティ形成を考える |
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日時 | 2013年11月29日(金)13:00 - 17:20 |
会場 | 竹駒神社 参集殿 (宮城県岩沼市稲荷町1-1) |
プログラム |
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主催 | 東日本大震災支援全国ネットワーク(JCN) |
共催 | みやぎ連携復興センター 災害ボランティア活動支援プロジェクト会議 |
協力 | NPO法人日本ファシリテーション協会 NPO法人 メディアージ |
参加者数 | 147名 |